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北条 朝時(ほうじょう ともとき)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府第2代執権・北条義時の次男。名越流北条氏の祖。母は正室の姫の前。祖父・北条時政の屋敷であった名越邸を継承した事により、名越次郎朝時とも呼ばれる。 == 生涯 == 建久4年(1193年)、北条義時の次男として鎌倉で生まれる。母は源頼朝の仲介で義時の正室となった姫の前で、正室の子としては長男であり、北条家の嫡子であったと考えられる。父義時31歳、側室を母とする異母兄の金剛(のちの泰時)は11歳であった。建仁3年(1203年)、朝時が11歳の時に比企能員の変が起こり、母の実家比企氏が義時ら北条一族によって滅ぼされた事で両親は離婚し、母姫の前は上洛して源具親に再嫁した3年後に死去している。後に朝時は具親の次男源輔時を猶子にしている。建永元年(1206年)10月に、13歳で元服する。 建暦2年(1212年)5月7日、20歳の時に将軍・実朝の御台所・信子に仕える官女である佐渡守親康の娘に艶書を送り、一向になびかないので深夜に娘の局に忍んで誘い出した事が露見して実朝の怒りを買ったため、父義時から義絶され、駿河国富士郡での蟄居を余儀なくされる。1年後の建暦3年(1213年)、和田合戦の際に鎌倉に呼び戻されて兄の泰時と防戦にあたり、勇猛な朝比奈義秀と戦って負傷するなど活躍した。その後、御家人として幕府に復帰する。 承久3年(1221年)の承久の乱では北陸道の大将軍として、佐々木信実や結城朝広らと協力して転戦し、越後や越中の朝廷軍を撃破した。戦後は上皇方に荷担した藤原範茂の処刑を行っている。貞応2年(1223年)10月の時点で、朝時は加賀・能登・越中・越後など北陸道諸国の守護を兼任した〔朝時の外祖父・比企朝宗は、かつて北陸道勧農使(守護の前身)として北陸地域を管轄していた。〕。 元仁元年(1224年)6月、32歳の時に義時が死去すると、泰時が六波羅探題として在京していたため、父の葬送を弟たちと共に行っている。その後、伊賀氏の変を経て泰時が3代執権となるが、この事件における朝時の動向は不明である。嘉禄元年(1225年)に越後守となる。嘉禎2年(1236年)9月には評定衆に加えられるが、初参ののち即辞退しており、幕府中枢から離脱する姿勢を見せている。 6年後の仁治3年(1242年)5月17日、泰時の病による出家に伴い、朝時も翌日に出家して生西と号した。朝時の出家の直接的な理由は不明だが、泰時の死の前後、京では鎌倉で合戦が起こるとの噂が流れ、将軍御所が厳重警護され鎌倉への通路が封鎖された事が伝わっており、朝時を中心とした反執権勢力の暗闘があった事によると見られている。3年後の寛元3年(1245年)4月6日、53歳で死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北条朝時」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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