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向嶽寺(こうがくじ)は、山梨県甲州市にある禅寺で臨済宗向嶽寺派の大本山。山号は塩山。本尊は釈迦如来。 非公開寺院のため建物内部や庭園は原則的に拝観不可である。 ==歴史== 甲斐国では鎌倉時代に臨済宗が広がるが、向嶽寺は南北朝時代の1378年(永和4年)に、晩年の抜隊得勝(ばっすいとくしょう)が塩山高森(甲州市塩山竹森)に建てたことに草庵に始まる。抜隊は相模国を拠点に活動を行っていたが、かねてから甲斐への移住を希望していたという。 同所の不便のため弟子の宝珠寺(山梨市の)の住持・松嶺昌秀(しゅうれいしょうしゅう)が周旋し、1380年(康暦2年)正月20日に甲斐国守護武田信成から寄進された塩ノ山へ移り、向嶽庵と号した。信成は絵図を作成して寺領を確定し、本尊の釈迦如来像を寄進したという。また、抜隊の死後に供養を行っている。「嶽」は富士山を意味し、抜隊がかつて霊夢を見たことに因む。 南朝方との関わりが深く、後亀山天皇の勅願寺となったという。武田氏の保護もあり多くの塔頭・末寺を有した。 室町時代後期の明応年間には甲斐守護・武田信昌の子である信縄と油川信恵間で抗争が発生し、「向嶽寺文書」によれば、都留郡の国衆・小山田信長がこれに乗じて都留郡田原(都留市田原)の向嶽寺領・田原郷を横領した。明応7年(1498年)に信縄・信恵間で和睦が成立すると、翌明応8年(1499年)9月24日に信長は横領文を還付している。 江戸時代中期には末寺離れが相次いだ。また、度々火災に遭っているが、その都度復興されている。明治に入り京都南禅寺に属していたが、1908年(明治41年)に独立して臨済宗向嶽寺派の大本山となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「向嶽寺」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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