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君沢形(きみさわがた、くんたくがた〔石井(2002年)、107頁。(安達裕之執筆)〕)とは、幕末に日本の戸田村などで建造された西洋式帆船の型式である。原型は、難破したロシア船員帰国用に建造された「ヘダ号」で、同型船10隻を日本で使用するために量産した。帆装形式はスクーナーに分類される。名前は戸田村が属した君沢郡に由来する。ヘダ号及び君沢形の建造は、日本人にとって、洋式船の建造技術を実地で習得する重要な機会となった。なお、「君沢形」の名は、同型船に限らずスクーナー全般をさす一般名詞としても用いられることがある〔「君沢形 」『大辞林』第二版、三省堂、1995年。〕。 == 建造の経緯 == 1854年10月21日(嘉永7年8月30日)、日露和親条約の締結交渉のため、ロシア帝国のエフィム・プチャーチン提督はフリゲート「ディアナ」で来日した。しかし、下田沖で碇泊中の同年12月13日(安政元年11月4日)に安政東海地震に見舞われて「ディアナ」は津波で大破、修理のため戸田村へ回航中に嵐で航行不能となり、1855年1月7日(安政元年12月2日)に沈没してしまった。 プチャーチンは、帰国のために洋式船を新造することを即座に決意し、1855年1月12日(安政元年12月7日)に幕府の同意を取り付け、戸田村で建造準備に着手した〔奈木(2005年)、366頁。〕。設計はロシア人乗員のアレクサンドル・コロコリツェフ少尉(後に中将)やアレクサンドル・モジャイスキー(後に飛行機の開発に取り組み、ロシアでは飛行機による有人動力飛行に世界で初めて成功した人物とされている)らが担当し、日本側が資材や作業員などを提供、支援の代償として完成した船は帰国後には日本側へ譲渡する契約となった。幕府は、韮山代官の江川英龍(江川太郎左衛門)と勘定奉行の川路聖謨を日本側の責任者に任命している。まずは船台を建築した後に、船体を起工。日本側には洋式船の建造経験は乏しかったにもかかわらず、日露の共同作業はおおむね順調で、起工より約3カ月後の4月26日(安政2年3月10日、ロシア暦4月14日)には無事に進水式を終え、建造地の戸田(へだ)にちなんで船名を「ヘダ」(ヘダ号)と命名された。艤装も速やかに行われ、5月2日(安政2年3月16日、ロシア暦4月20日)には戸田から初航海に出た。建造費用は、労賃を除いて3100-4000両かかった〔奈木(2005年)、372頁。〕。 一方、「ヘダ」の建造を洋式造船技術習得の好機と見た幕府は、「ヘダ」の建造許可のわずか15日後の1855年1月27日(安政元年12月22日)には、川路聖謨に対して同型船1隻の戸田での建造を指示した。後に佐賀藩、水戸藩等も技術習得のため、幕府の許可を得て藩士を派遣している。その後「ヘダ」が無事に進水すると、同年5月6日(安政2年3月20日)には1隻の追加建造を命令。同年6月6日(安政2年4月22日)にも2隻の追加を指示。同年9月16日(安政2年8月6日)には、戸田でさらに3隻のほか、石川島造船所でも4隻の建造を命じた〔。戸田製の6隻は1856年1月頃(安政2年12月)までには完成している。これらの同型スクーナーを、幕府は1856年5月29日(安政3年4月26日)に「君沢形」と命名した。以上のほか、箱館奉行所にも君沢形建造指示が出されたが、箱館奉行所では独自設計を行って別型の二檣スクーナー「箱館丸」などを完成させ、これを箱館形と呼称している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「君沢形」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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