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呂尚(りょ しょう)は、紀元前11世紀ごろの古代中国・周の軍師、後に斉の始祖。 姓は姜、氏は呂、字は子牙〔劉, 尹『文明の原点』、148頁〕もしくは牙〔叢『中国五千年の物語』1巻、156-159頁〕、諱は尚とされる〔貝塚「呂尚」『アジア歴史事典』9巻、313頁〕。軍事長官である師の職に就いていたことから、「師尚父」とも呼ばれる〔〔貝塚茂樹は『詩経』大明編より、字を尚父とし、尚は「尚父」の略称だと指摘している。(貝塚「呂尚」『アジア歴史事典』9巻、313頁)〕。謚は太公。斉太公、姜太公の名でも呼ばれる。一般には太公望(たいこうぼう)という呼び名で知られ、釣りをしていた逸話から、日本ではしばしば釣り師の代名詞として使われる〔平勢隆郎「春秋」『中国史 1』収録(世界歴史体系, 山川出版社, 2003年8月)、230頁〕。 == 生涯 == 歴史上重要な人物にも拘らず、出自と経歴は数々の伝説に包まれて実態がつかめない存在である〔。殷代の甲骨文に呂尚の領国である斉の名前は存在するものの、周初期の史料に呂尚に相当する人物の名前を記録したものは確認されていない〔落合『古代中国の虚像と実像』、44-45頁〕。 『史記』斉太公世家では、東海のほとりの出身であり、祖先は四岳の官職に就いて治水事業で禹を補佐したとされている〔〔『史記』巻32、斉太公世家 〕。一族の本姓は姜氏だったが、支族は呂(現在の河南省南陽市西部)や申(現在の陝西省と山西省の境)の地に移住し、土地名にちなんだ呂姓を称したという〔〔。元は屠殺人だった、あるいは飲食業で生計を立てていたとする伝承が存在する〔〔。 また周に仕える以前は殷の帝辛 (紂王) に仕えるも帝辛は無道であるため立ち去り、諸侯を説いて遊説したが認められることがなく、最後は西方の周の西伯昌 (後の文王) のもとに身を寄せたと伝わる〔『史記』斉太公世家〕。周の軍師として昌の子の発 (後の武王) を補佐し、殷の諸侯である方の進攻を防いだ〔平勢『都市国家から中華へ 殷周春秋戦国』、66頁〕。殷を牧野の戦いで打ち破り、軍功によって営丘(現在の山東省淄博市臨淄区)を中心とする斉の地に封ぜられる〔叢『中国五千年の物語』1巻、154頁〕。 営丘に赴任後、呂尚は隣接する莱の族長の攻撃を防いだ。『史記』によれば、呂尚は営丘の住民の習俗に従い、儀礼を簡素にしたという〔。営丘が位置する山東は農業に不適な立地だったが、漁業と製塩によって斉は国力を増した〔。また、斉は成王から黄河、穆稜(現在の湖北省)、無棣(現在の河北省)に至る地域の諸侯が反乱を起こした時、反乱者を討つ権限を与えられた〔『史記』上(中国古典文学大系, 平凡社, 1968年)、344-345頁〕。死後、丁公が跡を継いだ。呂尚は没時に100歳を超えていたという〔。 しばしば呂尚は部族集団の長とみなされ、周と連合して殷を滅ぼした〔平勢『都市国家から中華へ 殷周春秋戦国』、378-380頁〕、もしくは周軍の指揮官として殷を攻撃したと解される〔。呂尚が属する姜氏は周と婚姻関係があったと推定する意見もある〔〔竹内康浩「西周」『中国史 1』収録(世界歴史体系, 山川出版社, 2003年8月)、170頁〕。 春秋初期に強国となった斉は、自国の権威を高めるために始祖である呂尚の神格化を行った〔落合『古代中国の虚像と実像』、44頁〕。呂尚の著書とされる『六韜』と『三略』は唐代に重要視され、731年に玄宗によって呂尚と前漢の張良を祀る太公廟が各地に建立された〔窪徳忠『道教の神々』(講談社学術文庫, 講談社, 1996年7月)、190頁〕。760年に粛宗から武成王を追贈され、太公廟は武成王廟と呼ばれるようになり〔、文宣王孔子とともに文武廟に祭祀された。明の時代に入ると、洪武帝は周の臣下である呂尚を王として祀るのは不適当であるとして、武成王廟の祭祀を中止させた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「呂尚」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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