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呂 布(りょ ふ、? - 建安3年〔198年〕)は、中国後漢末期の武将・群雄。字は奉先。并州五原郡(現在の内蒙古自治区内)の人。『三国志』巻七 呂布伝、『後漢書』列伝六十五 呂布伝などに記録がある。 丁原・董卓に仕え、抜群の軍事力を誇った。董卓との亀裂から彼を殺した後天下を失い、放浪するも最後は曹操に殺された。作品によっては項羽と共に最強とされ〔『作品について|項羽と劉邦』 〕〔[http://www.ctv.com.tw/opencms/2012/3kingdoms/ 『《三國》中視專題』公式サイトによれば「武功天下第一」とされる。詳細は「角色介紹」の「東漢末年人物」参照。〕、三国志関係の物語等でもしばしば最強の武将として描かれる。 == 事跡 == === 董卓政権下 === 勇猛さと武芸の腕前を買われ、幷州刺史の丁原に仕えた。丁原は、呂布を主簿(会計係)に任じて非常に寵愛した。 中平6年(189年)、霊帝が崩御して宦官の十常侍と外戚の何進とが政争を繰り広げると、丁原は何進と宦官殺害を共謀し、執金吾に任命された。しかしまもなく何進は十常侍に殺害され、十常侍もまた袁紹らに誅殺された。 何進死後、洛陽に入城した董卓は叛乱を計画し、丁原の軍勢を奪おうと考えた。そこで丁原の信頼厚い呂布を誘って、これを殺害させることに成功した。これにより董卓は呂布を非常に重用し、父子の契りを結んだ。呂布は騎都尉、中郎将に累進して、都亭侯に封じられた。 呂布は腕力が常人よりも遥かに強く、弓術・馬術にも秀でていたため、前漢の李広になぞらえて飛将と呼ばれた。絶大な権力を握った董卓は、傍若無人な振る舞いで多くの人の恨みを買っていたため、傍らに呂布を置いて身辺を警護させた。 初平元年(190年)、袁紹らが董卓に対して挙兵する(いわゆる反董卓連合)と、曹操は出師したが呂布に大打撃を受けた〔渡邉(2013) p.54〕。 翌2年(191年)、董卓は孫堅との戦いに際し、胡軫・呂布らを討伐軍として派遣した。しかし呂布は胡軫に偽情報を与える等相いれず敗北(陽人の戦い)。この戦い以降、董卓軍の形勢不利が固まったため、董卓は洛陽を放棄し、長安まで退いた。その際呂布はまた洛陽で孫堅と戦ったが、敗れたという記述も有る〔後漢書(2004)・董卓伝p.407「明年,孫堅收合散卒,進屯梁縣之陽人。卓遣將胡軫、呂布攻之,布與軫不相能,軍中自驚恐,士卒散亂。堅追撃之、軫・布敗走。卓遣將李傕詣堅求和、堅拒絕不受、進軍大谷、距洛九十里。卓自出與堅戰於諸陵墓閒、卓敗走、卻屯黽池、聚兵於陝。堅進洛陽宣陽城門、更撃呂布、布復破走」〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「呂布」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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