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呂留良 : ウィキペディア日本語版
呂留良[りょ りゅうりょう]

呂 留良(りょ りゅうりょう、1629年 - 1683年)は、清朝中国の医師思想家。またの名を光倫、字は用晦または莊生、晚村と号する。他の号に有耻斋老人、耻翁、呂医山人、南阳布衣などがあり、晩年に剃髪し、名を耐可、字を不昧とし、何求老人と号する。
==生涯==
浙江省石門(桐郷市)の出身。12歳頃から文藻に富むことが知られ、当時の学者たちに畏敬されたという。科挙に及第し、生員として十数年過ごす。経世の志があり張履祥らと朱子学を振興。明朝の滅亡にさいし発心して剃髪し、以後は清朝に仕えぬと誓い、各地を遊歴し時には医者を開業し「自ら働かざれば食さず」という主義を実行する。天葢楼の名で自著を刊行しては古人の文章を批評し、清朝への不満・反抗の思想を含むにもかかわらず広く読まれ、彼の死後は聖人のように尊敬され、代々の地方官がその祠に額を贈るほどだった。門人としては『朱子文語』を編纂した嚴鴻逵(庚臣)がもっとも著名である。1683年に55歳で没した。
歳月は流れ、1728年はすでに雍正帝の治世になっていたが、呂留良の『時文評選』にある「華夷の弁」の議論に影響された曾静という学者が、漢民族の復興をはかり文字の獄を引き起こした。そのため、呂留良の墓は掘り起こされ首を切られて獄門にさらされ、子の呂毅中は家族とともに斬首され、一族は満州に流刑されて奴隷となるという苛酷な懲罰が下された。著述の多くは焚書の憂き目にあい、名前しか残っていないものもある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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