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呉 佩孚(ご はいふ)は清末民初の軍人・政治家。北洋軍閥直隷派の有力指導者の1人である。字は子玉。 == 事績 == === 清末の動向 === 雑貨商の家庭に生まれる。6歳から私塾で学び、14歳の時に登州府の水師営で学生兵となった。1896年(光緒22年)に22歳で秀才となり、官吏登用の道が開かれる。ところが翌年に事件に巻き込まれ秀才の資格を剥奪、指名手配も受けてしまう。呉は北京に逃れ、易者として生計を立てた〔李(1980)、200頁。〕。 1898年(光緒24年)に聶士成率いる淮軍に入隊し、同年に開平武備学堂に入学する。しかし1900年(光緒26年)に義和団の乱で武備学堂が機能停止となったため、復帰して砲隊隊官となる。1902年(光緒28年)9月、直隷総督袁世凱配下に転じ、保定陸軍速成学堂に入学、1904年(光緒30年)1月に卒業した。その翌月に、日露戦争が勃発すると、呉佩孚は北洋督練公所から日本軍と協力するための偵察隊に選抜された。この時、岡野増次郎と知り合っている〔。 日露戦争後は第11標第1営督隊官(1905年10月)、第1営管帯(1906年)と昇進する。1907年(光緒33年)、曹錕率いる第3鎮に従い、長春に駐屯した。この時、呉は曹に重用され、辛亥革命勃発後に曹の推薦で第3標標統に抜擢されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「呉佩孚」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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