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呉 俊陞(ご しゅんしょう)は清末民初の軍人。奉天派の有力軍人である。旧名は兆恩。字は興権。祖籍は山東省済南府歴城県。 == 事績 == === 奉天派における台頭 === 馬売りの貧農の家庭に生まれ、1880年(光緒6年)に清軍に加わる。匪賊討伐で軍功をあげ、1906年(光緒32年)、奉天後路巡防営統領に昇進して鄭家屯に駐留した。翌年に張作霖と知り合い、親交を結んだ。 1912年(民国元年)8月、呉俊陞は東三省へのモンゴル軍の進攻を撃退する上で功績があり、翌年2月、奉天第2騎兵旅旅長に昇進した。5月には、陸軍中将銜を授与されている。11月には林西に駐屯し、宗社党の反乱を鎮圧した。 1914年(民国3年)2月、陸軍中将に昇進し、翌月には洮遼鎮守使を兼任した。1915年(民国4年)12月の袁世凱の皇帝即位にともない、二等男爵に封じられた。1916年(民国5年)10月、林西之戦でモンゴル軍を撃破した。同年には日本軍と衝突する鄭家屯事件が発生して呉俊陞の部隊もこれに加わったため、北京政府の命令により日本側への謝罪・賠償を承諾させられている。 1917年(民国6年)、第28師師長馮徳麟が張作霖に対して蜂起すると、呉俊陞は張を支援し、馮を破った。この功績により、張から第29師師長に任命されている。1919年(民国8年)、吉林督軍孟恩遠を討伐した際には、北路総司令に任命され、東路総司令の孫烈臣とともに孟を挟撃してこれを屈服させた。これにより、呉は黒竜江督軍兼省長に任命された。 以後7年に渡り、呉俊陞は黒竜江省を統治したが、呉の内政手腕は拙く、しかも私利を貪る傾向が強かった。同じ奉天派軍人である張作相は、後に吉林省を数年間統治したが、張作相は内政でも優れた実績を残している。呉の統治とは対照的であったと言えよう。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「呉俊陞」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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