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呉 夫人(ご ふじん、不明-202年または207年)は、中国後漢末期の人物。揚州呉郡呉県の出身。弟は呉景。孫堅の正妻。子は孫策・孫権・孫翊・孫匡ら。娘は不明、諡号は武烈皇后。 == 生涯 == 早くに父母を失ったため、銭唐に移住して弟と共に暮らしていた。孫堅は、彼女が才色兼備であると伝え聞くと、妻として迎えたいと申し出た。しかし呉氏の親族の者たちは、孫堅が軽薄で抜け目のない者であると見做していたため、それを嫌って婚姻に反対した。これを聞いた孫堅は、ひどく侮辱されたと思って恨みを抱いたという。しかし呉夫人が「どうして女一人のためにわざわざ災いを招くような真似をするのですか。もし仮に私が嫁ぎ先で不幸な目に遭ったとしても、それは運命なのです。」と言ったので、親族は孫堅からの申し出を受け入れ、婚姻を許したという。呉夫人は、4人の男子と1人の女子を産んだ。 干宝著『捜神記』によれば、呉夫人が長男を身籠ったときのこと、月が懐に入ったのを夢に見て、その後に生まれたのが孫策であったという。また孫権を身籠ったときには、太陽が懐に入ってくる夢を見たため、そのことを孫堅に告げたという。孫堅は「月と太陽は陰と陽との精髄であり、最も尊いものの象徴だ。俺の子孫は栄えるに違いない。」と言い喜んだという。 光和7年(184年)、太平道の張角によって勃発した宗教的な反乱である黄巾の乱の鎮圧のため、孫堅は漢王朝の中郎将であった朱儁の下で参戦、呉夫人と呉夫人の子供たちを九江寿春に残した。中平六年(189年)、孫堅が兵を挙げると家族に舒県に移住した。 初平2年(191年)、孫堅が襄陽の戦いで戦死すると、呉夫人は江都に移り住んだ。その後、孫策は揚州で勢力を築き始めると、呂範を遣わし呉夫人を自分の下に迎えた。 前任の合浦太守王晟らが孫策に対抗するようになると、孫策は自ら討伐に出向きすぐさま撃破した。呉夫人は孫策に「王晟殿は、かつてお前のお父上とは家族ぐるみで挨拶するほどの親しい仲でした。彼の子弟たちは既にこの世になく、彼だけが残っています。お父上の旧友の誼として、彼一人でも見逃しておくれ」といった。孫策は母の言葉に従い、王晟を見逃して、その他の鄒他・銭銅らその一族を皆殺しの刑に処した。 あるとき、孫策の功曹であった魏滕は、孫策の怒りを買って処刑されようとしていた。士大夫たちはそのことを悲しみ、魏滕を救う手立てがないことを憂いた。呉夫人はこれを聞くと「おまえは江南に勢力を広げたばかりでその覇業はまだ道半ばです。今こそ賢者や非凡な才を持つ者を礼遇し、欠点には目をつぶって功績を高く評価すべき時なのです。魏滕はその職務をしっかりと全うしています。なのにおまえが魏滕を殺しては、人々が揃って背くことになるでしょう。私は災いがやってくるのを見たくありません。その前にこの井戸に身を投げます。」と、大きな井戸の縁に寄りかかりながら孫策に向けて言った。このため孫策は思い留まり、魏滕を釈放したという。呉夫人の智略や機転は、おおよそみなこういう風なものであったという。 孫策が殺されると、孫権がその跡を継いだ。孫権がまだ若かったため、呉夫人は政治・軍事の両面に亘って孫権に助言し、大きく貢献した。また孫権に対し、周瑜を兄として仕えるよう命じた。建安7年(202年)、張昭らを招いて後事を託し、その数年後に死去した。高陵(孫堅の墓陵)に合葬された。後に孫権が呉を建国すると、呉夫人は武烈皇后と諡された。 生没年は不詳であるが、『三国志』に注をつけた裴松之は、当時の会稽郡の貢挙簿の記録から、建安12年(207年)に死去したと断言している。 小説『三国志演義』では、呉夫人は孫堅の第1夫人、妹の呉国太は孫堅の第2夫人で、呉夫人の子は4人の男子のみとされる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「呉夫人」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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