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呉 昌征(ご しょうせい、1916年6月28日 - 1987年6月7日)は、台湾の台南州台南市出身のプロ野球選手(外野手)。左投げ左打ち。 プロ入りからまでは本名の呉 波(ご は)。その後日本に帰化し、石井 昌征(いしい まさゆき)に改名。登録名は呉 昌征とした。 == 来歴・人物 == 嘉義農林学校時代には近藤兵太郎監督の下、春の甲子園に1回、夏の甲子園に3回出場し、裸足のプレーで知られた。嘉義農林時代は、外野手に加えて投手を兼任していた。しかし、投手としては芳しい成績を残せず、野手に専念するようになった。 に東京巨人軍に入団し俊足・強肩の外野手として活躍。「人間機関車」と呼ばれた。・には2年連続首位打者を獲得する。当時は品質の粗悪な飛ばないボールを使っていたため、首位打者ではあるものの打率はそれぞれ.286、.300と低かった(1942年の打率.286での首位打者は史上最低記録)。 1943年シーズン終了後、台湾に帰郷する為、巨人を退団〔。台湾へ向かう準備で訪れた大阪で、同地の企業・神島化学に勤務することとなった〔。神島化学の社長・宮内清が阪神球団社長の富樫興一に呉を紹介したことで、阪神軍に移籍することとなった〔。この移籍については、金銭トレードとも書かれることがある〔。 シーズンより、阪神軍でプレー。同年は、20試合の出場で19盗塁を記録し、巨人軍の呉新亨と並んで盗塁王となった。 は投手が少ないチーム事情から、「外野から正確なバックホームができるのだから、投手もできるだろう」という理由で投手としても登板するようになる。同年4月28日に行われた開幕第2戦目の対阪急戦(西宮)で初先発〔。9回1失点でプロ初勝利を完投で挙げる〔。これ以降、先発ローテーションに定着〔。同年6月16日に異例の投手兼任で、戦後初のノーヒットノーランを達成した。この試合では四死球を5個与えているが、投球数は122球で試合時間は約1時間半の快投だった〔。さらに同年はチームトップの14勝(6敗)、リーグ9位の防御率3.02を挙げた。更に、登板のない日は打者としても1番・センターとしても打率の方でも.291(リーグ14位)を記録し、文字通り投打で大活躍した。 1946年以外は投手として出場することはほとんど無く、主に1番・センターとして阪神球団の主力として活躍した〔。 末の2リーグ分裂騒動でパ・リーグの毎日オリオンズに移籍。に現役引退した。呉は実働20年で現役引退したが、実働20年を記録した選手は、呉が史上初だった〔。 1987年6月7日、死去。満70歳没。、野球殿堂入り。 巨人・阪神という人気チームで、主力選手として活躍した稀有な存在であった。巨人対阪神のOB戦では、「君はこっちだ」と川上哲治・青田昇や藤村富美男・梶岡忠義ら両軍から、からかわれていた。 「昌征」という名前は、呉の恩人の息子につけられた名前を「自分にも(その名を)分けてつけさせて下さい」といって変更したものである。 太平洋戦争末期の1945年、日本プロ野球は戦争の影響からシーズンは中断となった。この戦争の影響で阪神甲子園球場のグラウンドが芋畑になった際、呉はそこで現場監督(耕作指導員)をしていた〔。呉は学生時代に嘉義農林学校で学んでいたこともあって、その経験を生かし土壌改良にも取り組んでいた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「呉昌征」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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