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呉淞鉄道(ごしょうてつどう、、)とは、清朝時代、上海から呉淞鎮までを結んだ鉄道。中国で初めての商業営業路線である。1876年(光緒2年)イギリス商人が許可を得ることなく建造し、開通から16ヵ月後に清朝の官吏に285,000両で買収され、撤去された。 == 沿革 == ===建設の背景=== 1825年、イギリスで世界で初めて商業営業鉄道であるストックトン・アンド・ダーリントン鉄道が開通した。林則徐が1839年に編集した『四洲誌』、魏源が1844年に編集した『海国図誌』、の『瀛環志略』などには、ヨーロッパ各国の鉄道建設の状況が記載されている。特に、1848年に書かれた『瀛環志略』には「造火輪車,以石鋪路,熔鐵為路,以速其行」(火輪車を造り、石で路をかぶせ、鉄を熔かして路を造り、速く行く)とある。 1863年7月(同治2年6月)、李鴻章は上海、蘇州一帯で太平天国の乱の鎮圧作戦に当たっていた。この時、上海の27の英仏商人が時の欽差大臣、江蘇巡撫である李鴻章に対して、上海から蘇州に至る鉄道の建設を要求し、太平天国を攻撃するのに有利になるとした。李鴻章はこれを総理衙門に建議するも、「絶対拒絶」の回答であった。 清朝政府に対し鉄道の優越性を宣伝するため、イギリス商人ドーランド (Durand) は北京の宣武門外に総延長0.5kmの狭軌「展覧鉄道」を自費で建設した。これはただ鉄道の原理を展示するだけで、実用性には乏しいものであったが、鉄道という新しいものを中国人は初めて見せられ、恐怖が北京市に充満したという。徐珂の『清稗類鈔』には、“英人杜蘭德於同治乙丑七月,以長可里許之小鐵路一條,敷於京師永寧門(宣武門)外之平地,以小汽車駛其上,迅疾如飛,京人詫為妖物。”とある。 後に歩軍統領衙門は“觀者駭怪”(見ている者は驚き怪しむ)としてあわてて鉄道を撤去し、やっと平静を取り戻した〔〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「呉淞鉄道」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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