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呉清源 : ミニ英和和英辞書
呉清源[ご せいげん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ご]
 【名詞】 1. giving 2. doing (something) for 
: [みなもと, げん]
 【名詞】 1. source 2. origin 

呉清源 : ウィキペディア日本語版
呉清源[ご せいげん]

呉 清源(ご せいげん、1914年6月12日 - 2014年11月30日〔生日は旧暦の5月19日で、新暦では6月12日。〕 )は、囲碁棋士中国福建省出身、日本棋院瀬越憲作名誉九段門下。本名は呉 泉(くれ いずみ)、清源は通称名。一時日本棋院を離れて読売新聞嘱託となるが、後に復帰。日本棋院名誉客員棋士。木谷實とともに「新布石」の創始者としても知られる。
== 経歴 ==

=== 来日まで ===
父呉毅(炎曾)の三男として福州に生まれる。先祖は代々官職について「書香一門」とも呼ばれていたが、呉毅は福建高等学堂卒業後の1913-14年頃に日本に留学し、呉清源誕生後に北京に移る。留学中に囲碁に興味を持ち、方円社に通うなどして初段に二子ほどの腕前となり、帰国時には多くの棋書を持ち帰っていた。北京では義父張元奇のつてで平政院に勤めた。
4歳のときにヘルニアに罹り、治りきらないままとなる。5歳から父に四書五経を学ばせられる。7歳のとき囲碁を教えられ、父が日本に留学した時に持ち帰ったり、取り寄せたりした棋書(『囲棋新報』合本、『敲玉余韵』(本因坊秀策の棋譜集)、御城碁の棋譜など)により学ぶ。数年で周りには対等に相手ができるものがいなくなり、神童と呼ばれた。1923年に父に連れられて、北京の碁会所「海豊軒」で当時の中国の一流棋士である顧水如汪雲峰などと打つようになり、呉は五子ぐらいの手合だった。1924年に父は結核により33歳で亡くなるが、顧水如の紹介で段祺瑞と対局し、月100元の学費援助を受けるようになる。また段の発案で号を付けることになり、清源となった。段からの奨学金が途絶えると、資産家の集まるレストラン「来今雨軒」で碁を打つようになって天才少年と評判になり、日本人のクラブではその評判を聞いて自分たちのクラブで碁を打つよう呉を招待した。呉が噂にたがわぬ腕を持つと分かると、訪中経験もある日本の棋士瀬越憲作と、呉を日本に呼ぶことが相談される。日本の新聞社も中国に駆けつけこの天才少年のことを報道した。
1926年に岩本薫六段と小杉丁四段が訪中し、呉は岩本に三子で2連勝、二子で負け、小杉に二子で勝ちとなる。続いて1927年に訪中した井上孝平五段に呉は二子で勝ち、先で1勝1敗とし、瀬越はこの棋譜を見て「秀策の再来」と述べたとされる。瀬越は犬養毅大倉喜七郎などの助力も受けて正式な招待状を送り、1928年になると準備のために弟子の橋本宇太郎四段を北京に派遣した。この時の試験碁で、呉は橋本に先番で2連勝する。この年14歳のときに、母と兄と共に日本に渡った。
日本棋院では段位を決めるための試験碁が行われ、篠原正美四段に先で勝ち、本因坊秀哉名人に二子(二三二)で勝ち、村島義勝四段、前田陳爾四段らにも勝ち、1929年に三段の段位を認められた。この試験碁は時事新報に掲載されたが、続いて呉の対局は「呉少年出世碁」と題して行われ、その成績は、先番勝-篠原正美四段、先番負-橋本宇太郎四段、先番負-小野田千代太郎六段、先番負-木谷實四段。この木谷戦で、先番の呉は初手を天元に打ち、3手目以降はマネ碁という手段(いわゆる「太閤碁」)に出て話題となった(65手目にマネ碁を止める)。
来日直後は瀬越の世話で麻布谷町の借家に住んだが、1年ほどで東中野に移り、次いで西荻窪の瀬越宅の隣に住む。兄の浣は早稲田大学明治大学に通った。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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