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呉王僚(ごおうりょう、? - 紀元前515年/在位:前526年 - 前515年)は、中国春秋時代の呉の第5代の王。姓は姫で、諱は僚または州于。ここでは『史記』呉太伯世家を中心に記述される。 == 生涯 == === 王位相続の経緯 === 父は初代の王の寿夢あるいは第4代の王の余昧〔『史記』呉太伯世家より。『春秋左氏伝』では寿夢の四男と記されている。〕。弟に蓋余(掩餘)と燭庸がいる〔『』および『東周列国志』によると、呉の公子慶忌の父となっており、公子慶忌の存在を恐れた呉王闔閭と謀臣伍子胥によって派遣された刺客・石要離(要離)に惨殺された設定となっている。〕〔『春秋左氏伝』では呉王僚と蓋余(掩餘)・燭庸に関する具体的な親族の血縁上の系譜関係は記されていない。〕。 父の余昧はもともと初代の王である寿夢の3男で王位に就く資格はなかった。寿夢には4人の息子があり、その中で4男の季札〔『春秋公羊伝』では、僚は季札の庶兄。〕の器量がずば抜けていたことから王位を季札に譲りたいと考えていた。だが寿夢は王位相続に適切な対策をとらずに死んだ。だが兄である諸樊、余祭、余昧らは父の気持ちを知っていたため、季札に王位を継ぐように求めた。しかし兄を差し置いて王位を継ぐことは不敬であるとして固辞したため、仕方なく長兄の諸樊が継ぎ、その死後王位は息子の光(のちの闔閭〔『史記索隠』が引く唐の孔穎達の言によると、公子光(闔閭)は余昧の息子。〕)ではなく、弟が順に跡を継いでいくようにした。こうすれば順番で季札が跡を継ぐことになるからである。だが、諸樊が死んで余祭、余祭が死んで余昧までは継いだが、余昧が死ぬと季札はまたも王位を固辞した。このため、余昧の息子である僚が跡を継いだ。 このことに対して、僚の呉王即位に対して収まらぬ者がいた。長兄・諸樊の息子である光である。祖父の意思があって王位継承の順序は変わったが、余昧が死んで季札が王位を固辞した段階で、王位継承権は長兄の子である自分に戻るべきであると考えていた。三兄の子である僚に従ういわれは全くないと思っていたと記述されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「呉王僚」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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