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周敷(しゅう ふ、530年 - 564年)は、南朝梁から陳にかけての軍人。字は仲遠。本貫は臨川郡。 == 経歴 == 臨川郡の豪族の生まれで、散財して人士を厚遇し、任侠として知られた。侯景の乱が起こると、同郷の周続が侯景を討つ名目で起兵した。王毅が臨川郡を周続に委ねると、周敷は王毅を護衛して豫章郡に送った。梁の観寧侯蕭永・長楽侯蕭基・豊城侯蕭泰らが臨川郡に避難すると、周敷の名声を聞いてこれに頼った。周敷はかれらを保護して、その西上を送った。 周続の部下たちが内輪もめにより周続を殺して周迪に降った。周迪は人望の厚い周敷に接近し、周敷は周迪に仕えた。周迪は臨川郡の工塘に拠り、周敷は臨川郡の旧郡治に駐屯した。侯景の乱が平定されると、元帝により周敷は使持節・通直散騎常侍・信武将軍・寧州刺史に任じられ、西豊県侯に封じられた。 557年(永定元年)、陳が建国されると、王琳が郢州に拠り、余孝頃と王琳の部将の李孝欽らが周迪を包囲した。周敷は出兵して周迪を救援し、周迪は余孝頃らを捕らえることができた。 559年(永定3年)、熊曇朗が周文育を殺害して豫章郡に拠ると、兵1万人あまりを率いて臨川郡に進攻してきた。周敷は城下で熊曇朗と戦って撃破した。熊曇朗が巴山郡に逃亡すると、周敷は周迪や黄法𣰰らとともに熊曇朗を包囲して殺害した。 560年(天嘉元年)、王琳の乱が平定されると、周敷は散騎常侍・平西将軍・豫章郡太守に任じられた。当時、南江地方(江西省)の諸勢力は勝手に県令以下の官を任命して、陳の朝廷の召集に応じなかったが、ただ周敷のみが率先して入朝していた。561年(天嘉2年)、安西将軍に進み、豫章郡に帰った。 周迪が陳にそむいて挙兵すると、その弟の周方興を派遣して周敷を襲撃した。周敷は周方興と戦って破り、そのまま都督の呉明徹に従って周迪を討った。周迪を撃破すると、周方興や渠帥たちを捕らえた。周敷は安西将軍・臨川郡太守に任じられた。まもなく召還されて使持節・都督南豫北江二州諸軍事・鎮南将軍・南豫州刺史に任じられた。 564年(天嘉5年)、周迪が残党を糾合して再び臨川郡に進出し、東興県を襲撃した。文帝は都督の章昭達を派遣して周迪を討ち、周敷は章昭達に従って定川県に入り、周迪と対峙した。周迪はいつわって降伏を申し入れ、周敷との旧交にすがった。周敷は周迪を信じて降伏を許すと、会合して誓約の壇上に登ったが、周迪に殺害された。享年は35。諡は脱といった。 子の周智安が後を嗣いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「周敷」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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