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周 樹模(しゅう じゅも、)は、清末・中華民国の政治家。字は少樸、孝甄。号は沈観。 == 事績 == 湖北経心書院で学び、1885年(光緒11年)、乙酉科挙人となる。1889年(光緒15年)、巳丑科進士となり、翰林院編修の地位を授かった。1891年(光緒17年)、広東省副主考となり、1894年(光緒20年)には会試同考官に任ぜられている。1896年(光緒22年)、湖広総督張之洞の招聘に応じてその幕僚となり、唐心口堤防の修築工事を担当した。1902年(光緒28年)、都察院御史に転じ、1905年(光緒31年)、五大臣のイギリス訪問に随行している。〔徐主編(2007)、938頁。〕 帰国後は江蘇省提学使に任命され、1908年(光緒34年)4月には黒竜江巡撫左参賛に移った。翌1909年(宣統元年)3月に巡撫の程徳全が病気辞任したため、周が巡撫を暫時署理し、同年7月に正式に巡撫に任命されている。1911年(宣統3年)、会弁塩務大臣となり、更に中俄勘界大臣も兼任した。同年11月、辛亥革命の機に黒竜江省で保安会が成立すると、その会長に就任している。〔 中華民国成立後の1914年(民国3年)5月、北京政府平政院院長〔平政院とは、行政訴訟と弾劾の両権能を備えた機関である。粛政庁(官吏に対する監察・検察を担当)などを管轄した。郭主編(1990)、95頁。〕に起用され、同年11月には高等文官懲戒委員会委員長も兼ねた。翌1915年(民国4年)10月、病気のため一時辞職するが(後任として銭能訓が署理)、1916年(民国5年)7月に院長、9月に懲戒委員会委員長にそれぞれ復帰している。1917年(民国6年)2月に院長を、同年8月に委員長をそれぞれ辞任した〔郭主編(1990)、95-96頁。〕。以後、北京市や天津市に寓居した。1925年(民国14年)9月28日、天津市で病没。享年66〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「周樹模」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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