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周(しゅう、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)は、中国古代の王朝。殷を倒して王朝を開いた。また、時代の名前にも使い、「周代(西周、英語:Western Zhou)」と言えば、紀元前1046年頃から、遷都して東周となる紀元前771年の間のことを指す。国姓は姫(き)。周代において中国文明が成立したとみられる〔ヴァルフラム・エバーハルト(1909-89)による。W・エバーハルト、白鳥芳郎監訳『古代中国の地方文化-華南・華東』六興出版、1987年。また佐々木高明『日本文化の多重構造−アジア的視野から日本文化を再考する』小学館、1997年、p.58〕。 == 歴史 == === 克殷 === 周の伝説上の始祖は后稷と言い、帝舜に仕えて、農政に功績があったという。古公亶父の時代に周の地に定住したと言われている。 古公亶父には3人の息子があり、上から太伯・虞仲・季歴と言った。季歴の子の昌(後の文王)が誕生する際にさまざまな祥瑞〔めでたい兆し。聖人が生まれる際にはそのようなことが起きるとされていた。〕が起こり、古公亶父は「わが子孫で栄えるのは昌の子孫であろうか」と言っていた。古公亶父が季歴に後を継がせたいと考えていることを知った太伯と虞仲は出奔して南の荊蛮の地に赴いた。太伯は句呉〔紀元前586年、寿夢が国号を句呉から呉に改めた。〕(こうご)と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従った。 昌は後を継ぐと古公亶父の期待通りに周の勢力を拡大させ、殷より西伯〔国を東西南北に分けた時に西を管轄する権限を持つ諸侯。王の判断を待たずに独断で武力を用いてその地方を治めることを許される。〕に任ぜられる。文王が西伯の地位にあった時にすでに周は殷を上回る力を備えていたが、文王はあくまで殷の臣下の地位に甘んじた。 文王の息子の武王は弟周公旦・太公望・召公奭らの助力を借りて暴虐が募ったとされる帝辛(紂王)を牧野の戦いで破り、周王朝を建てた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「周」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Zhou dynasty 」があります。 スポンサード リンク
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