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周 蔭人(しゅう いんじん)は、中華民国の軍人。北京政府、直隷派に属した。字は樾恩。 == 事跡 == 陸軍速成学堂を卒業後、日本に留学する。1908年(光緒34年)に陸軍士官学校第6期砲兵科で学んだ。この時、孫伝芳が同学であった。帰国後は、第4鎮教練官に任命される。また、広西省で軍務に就いた。 1913年(民国2年)、北京政府陸軍部砲兵監に任命される。1918年(民国7年)、第4師の旅長に異動した。1919年(民国8年)、江西督軍陳光遠の参謀長に任命された。1922年(民国11年)6月、失脚した陳光遠の後任として第12師師長に昇進する。1923年(民国12年)3月、孫伝芳に随従して福建省に入る。1924年(民国13年)4月、福建軍務幇弁に任命された。 同年5月、浙江省へ向かった孫伝芳の後任として、周蔭人は福建督理に昇進した。1925年(民国14年)1月、福建軍務督弁に改めて任命される。同年11月、孫の下で五省聯軍閩軍総司令に任命された。1926年(民国15年)12月、中国国民党の北伐軍に敗北して福建省から逃走する。1927年(民国16年)に安国軍第1方面軍訓練処長に任じられた。張作霖も敗北すると、周も下野し、以後は天津に寓居した。 1956年、死去。享年73。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「周蔭人」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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