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呼松(よびまつ)は、岡山県倉敷市水島にある地域である。福田の南部から東部を占める。本項では同区域にかつて存在した児島郡呼松村(よびまつそん)についても述べる。 ==概要== ===呼松=== 福田南東部の鴨ヶ辻山西麓の海沿いにある呼松港を中心とした地区で、古くから釣漁と網漁が盛んな漁村であった〔。明治初期までの児島郡呼松村(よびまつそん)である。福田地域内でもっとも古い地区で、地名は、同市児島林の熊野権現勧請にまつわる伝説に由来するともいわれるが確かでない〔渡辺光・中野尊正・山口恵一郎・式正英『日本地名大辞典2 中国・四国』(1968年)朝倉書店〕。 また、伝承では西の沖にあった王島(古くは大島とも。現在の王島山)からの移住者の集落が期限とされる。同島には、承久3年に頼仁親王が児島配流の際に寄留したとの伝承がある〔下中直也 『日本歴史地名体系三四巻 岡山県の地名』(1981年)平凡社〕。 江戸時代は天城池田家の所領(天城領)で、、水島灘に面する瀬戸内有数の漁港として知られ、タイ、サワラなどが名物であった。『吉備温故秘録』には、児島郡呼松村、海辺山寄の村で岡山まで13里半、陸路7里、田畑10町3反、家87軒、男女692人、船39艘、四季共に漁猟にて渡世す、とある〔。 慶長9年の検地帳では「よびいまつ」とあり、石高71石余り、田2町反余り、畑7町7反余り、屋敷地3反4畝余りとある。江戸期当初は備前岡山領であったが、宝永頃には岡山領家臣の天城池田家の領地となる。『備陽記』では、享保6年の田畑は10町3反余り、家数87軒、人口692人、船39艘とある。文化年間の『岡山藩領手鑑』によると当時の石高は91石余り、直高171石余りで天城領、田2町余り、畑8町3反余り、樋1ヶ所、井戸38ヶ所、石橋3ヶ所、育麦蔵1軒、家数136軒、人口1537人、寺1院(安楽院)、牛13頭、酒屋1軒、船大工・桶屋各1軒、船151艘、他に肥船16艘と記録がある。『備前記』では、漁業を渡世とし、ボラ網漁・サワラ網漁・アミ漁・イナ漁などを行い、冬には流モチで鴨を獲っていたされる。『藩法集』によれば、文政13年頃には西は芸州、東は大坂まで漁稼に出、また享保3年までは江戸表役人が西国筋に越した際に上りの加子役を務めていたとしている〔。 文政7年8月、石高111石余りの地で、田畑も少なく漁業を中心に渡世してきたが、家数130軒余り、人口1600余人という状態であったため、新株別家を願い出て、59軒が許可され、続いて弘化3年に191軒・1770人余りで42軒の新株別家が認められている。また、『撮要録』には鴨ヶ辻山は福江村・林村・広江村と接しているため、文政2年に山境論争が起こったとある。『風騒紀聞』には、慶応2年4月の備中騒動の長州第二騎兵隊逃走事件は、呼松村中を震撼させた〔。 明治8年、王島の帰属を巡り海を挟んで西側にあった松江村と対立したが、両村が合併して王島村(おうじまそん)となったが、農村の松江と漁村の呼松の折り合いがつかず同12年に分村した〔。 明治22年、呼松・広江の2村が合併し呼松村と新設、同22年6月1日に村制を実施し、当地に役場が置かれる。同37年4月に呼松・福田・福田新田の3村が合併し、新しい福田村(のち福田町)を成立する。 近代には、呼松西沖合が干拓・埋め立てされ水島工業地帯が造成され、呼松港は細長い水路状の入江(呼松水路)の奥に位置することになり、景観を一変した。 昭和中期には、水島工業地帯の公害問題が発生し、重油によるとみられる海上汚染による異臭魚問題、工場廃液による死魚の増加や魚族の減少により多くの漁場を失った他、、埋立による港機能の縮小などもあいまって漁獲高は減少し、転廃業者が増加した〔〔〔巌津政右衛門 『岡山地名事典』(1974年)日本文教出版社〕。 なお、現在も呼松港は岡山県の管理漁港であり、現役である〔岡山県大百科事典編集委員会編集『岡山県大百科事典』(1979年)山陽新聞社〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「呼松」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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