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和合 英太郎(わごう えいたろう、1869年8月15日 - 1939年6月11日)は、製氷業のパイオニアといわれる実業家。また今日言うM&Aの先駆け的経営者でもあった。 ==来歴・人物== 広島藩士・和合義男とウメコの長男で、安芸国土手町(現在の広島市南区比治山町)の出身。国内初の晒し粉・ソーダの開発などで初期の紙幣(日本銀行券)製造に貢献した科学者・西川虎之助は叔父(母親の兄弟〔Karin Dr. Prof., geb. Behr ラビツケ・カリン,博士 (19.07.1935 - 15.11.2015), Meterologin, Hochschullehrerin 地球科学, 大学教授 Das japanische Gedächtnis - 日本の想い、ドイツの想い〕)で、和合も岡山中学校卒業後1888年上京し、西川が製氷業界に転じ東京青山に設立した青山製氷所に入社した。この時代は寒冷地から天然氷を切って輸送し販売、氷を貯蔵した氷室で食品保存を行っていた。このため大量の氷を扱う製氷業は大きなビジネスであった。1897年、気候によって価格が左右されやすく供給も不安定な天然氷に代わり、本格的な製氷機を導入した機械製氷株式会社の設立に発起人として参加。支配人兼技術師として辣腕を揮った。この後各地に設立された同業者との競合に打開策として合併に乗り出す。1907年、東京製氷を吸収合併して日本製氷とし1908年には大阪製氷、静岡製氷を合併吸収。この後は同業者競争渦を排除するため毎年のように吸収合併を繰り返し、1912年から1916年には東海地方に散在する10社、さらに和歌山、岡山、大分、熊本などの合計13社を相次ぎ傘下に収め全国にその名を知られた。1917年日本製氷社長就任、全国の製氷のうち40%を占めるまでとなった。1919年下関の東洋製氷も吸収し日本一の製氷会社・日東製氷を設立。1925年には日本冷凍協会(現・日本冷凍空調学会)を組織し推されて会長となり日本の製氷・冷凍業界の発展に貢献した。1928年、関西の老舗・龍紋氷室と合併し大日本製氷と改称。1933年病気で辞任するまで社長を務めた。 1939年死去。享年71。生前の勲功により従六位を賜った。 大日本製氷は和合の死後も日本食料工業、日本水産、帝国水産統制などと買収・合併を経て、現在のニチレイとなっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「和合英太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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