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和田合戦(わだがっせん)は、鎌倉時代初期の建暦3年(1213年)5月に鎌倉幕府内で起こった有力御家人和田義盛の反乱である。 鎌倉幕府創業の功臣であり侍所別当の和田義盛は二代執権北条義時に度重なる挑発を受けて、姻戚関係にあった横山党や同族の三浦義村と結んで北条氏を打倒するための挙兵をした。だが、土壇場で三浦義村は北条方に与し、兵力不足のまま和田一族は将軍御所を襲撃し、鎌倉で市街戦を展開する。合戦は2日間にわたり続くが将軍実朝を擁し、兵力に勝る幕府軍が圧倒し、和田一族は力尽き、義盛は敗死した。 この合戦の勝利により、北条氏の執権体制はより強固なものとなる。 == 背景 == 建久10年(1199年)の将軍源頼朝の死去後、幕府では御家人間の争いが続き、有力御家人の梶原景時、比企能員、畠山重忠らが滅ぼされている。建仁3年(1203年)に2代将軍頼家が幽閉された後に暗殺され、北条時政・義時父子によって実朝が将軍に擁立される。執権となった北条氏が幕府の実権を握りつつあった。 和田義盛は相模国の豪族三浦氏の一族で、武勇の士として知られ、源頼朝の挙兵に功があり、鎌倉での初期の武家政権の成立とともに初代侍所別当に任じられた。治承・寿永の乱、奥州合戦でも武功をあげて、幕府創業の功臣の一人として重んじられた。一連の御家人の乱では北条氏に味方し、比企能員の変では将軍だった頼家から北条氏討伐の密命を受けながらも、思慮の上でこの密書を時政に献じている。 承元3年(1209年)、既に老境に入った義盛は「一生の余執」として上総の国司を望むが、尼御台北条政子は、頼朝の頃からの慣例に反するとして、あえてこれを拒絶させている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「和田合戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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