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和田 幸次郎(わだ こうじろう、1869年3月又は4月(明治2年) - 1926年(大正15年)10月29日)は、日本の海軍軍人。 戦艦「朝日」砲術長として日本海海戦などを戦った。最終階級は海軍大佐。 == 生涯 == ===経歴=== 岩代国若松に生まれ、和田重恩の養子となる〔『会津人物事典 (武人編)』「和田幸次郎」〕。本籍は青森県であった〔『海軍兵学校沿革』「明治23年7月17日」〕。長じて海軍兵学校に入校し、1890年(明治23年)7月、17期生として卒業〔海兵の同期生に、和田と同じく若松に生まれ青森を本籍地としていた下平英太郎がいる。下平は日露戦争時に砲術学校教官として、砲術科員の育成を行っていた。両家の遺族は同じ町内に居住していた(蒲田静三ほか『陸奥の海鳴り』7頁)〕。席次は88名中59番である。「比叡」乗組み候補生として実務訓練を受け、僚艦「金剛」とともに和歌山県樫野崎灯台沖で遭難した「エルトゥールル号」の生存者を送り届けるためトルコまで赴いている〔水路部『軍艦比叡土耳古国航海報告 』、1892年。〕。 呉海兵団分隊士、軍法会議判士を務め、「筑波」分隊士として日清戦争を迎え、逃走した東学党の捕虜を追跡し負傷した。「小鷹」(横須賀水雷隊攻撃部)、「大島」乗組みを経て、1896年(明治29年)大尉に進級。以後「和泉」分隊長、「橋立」砲術長〔画像6枚目〕を歴任。 また「松島」で白石葭江らと砲員の訓練を指導している。 日露戦争を連合艦隊旗艦「三笠」砲術長として迎え、黄海海戦前に「朝日」砲術長に異動となる。黄海海戦、日本海海戦を戦い、前者では負傷した。 戦後は功四級に叙され、横須賀海軍工廠検査官(少佐)〔『職員録明治39年甲』〕などを経て、1913年(大正2年)、横須賀海軍工廠兵器庫主管(中佐)在任中に待命〔『会津会会報』〕となり、大佐進級後予備役編入となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「和田幸次郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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