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和田惟政 : ミニ英和和英辞書
和田惟政[わだ これまさ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [わ]
 【名詞】 1. (1) sum 2. (2) harmony 3. peace 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [これ]
 (int,n) (uk) this
: [せい, まつりごと]
 【名詞】 1. rule 2. government 

和田惟政 : ウィキペディア日本語版
和田惟政[わだ これまさ]

和田 惟政(わだ これまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将室町幕府末期の幕臣である。父は和田宗立(惟助)。
== 生涯 ==
和田氏は近江国甲賀郡和田村(現在の滋賀県甲賀市甲賀町和田)の有力豪族で甲賀武士53家のうち特に有力な21家〔「江州甲賀廿一家之由来書」〕に数えられ、特に山南七家〔『甲賀郡志』下巻〕とも称される家柄で油日神社と深く関係していた。初めは六角氏の被官であったが、惟政の父の代に室町幕府13代将軍・足利義輝の幕臣として仕える。天文22年(1553年)に三好長慶に追われた足利義輝が六角氏を頼って近江国に逃れており、その時期に和田氏と足利将軍家の関係が生じて幕府の奉公衆化したと推定されている〔久保尚文「和田惟政関係文書について」〕。
永禄8年(1565年)、義輝が家臣の松永久秀らによって暗殺される(永禄の変)。当時、和田家の家伝では、当時の惟政は義輝の不興を買って和田で謹慎を命じられていたため事件に巻き込まれずに済んだという。事件を知った惟政は興福寺に軟禁されていた義輝の弟・覚慶(足利義昭)を仁木義政とともに一乗院より救い出して甲賀の自邸に匿った。仁木義政は伊賀を、和田惟政は甲賀を拠点としていることから、義昭を奈良から伊賀を経由して甲賀に脱出させ、近江の六角氏を説得して上洛する計画であったとみられている。実際、惟政は六角義賢を味方につけ、更に義賢とともに織田信長浅井長政斎藤龍興を自陣営に引き込もうとしており、実際に義昭が惟政に対して自分の使者として信長と会うように命じた永禄9年(推定)6月11日付の自筆書状が残されている〔。ところが、六角氏・斎藤氏の離反が明らかになったことで近江にいられなくなった義昭は放浪することになり、惟政も義昭に付き従っている。尾張国の織田信長の援助を得て義昭が15代将軍に就任すると、信長によって摂津国芥川山城、のちに高槻城を与えられ、足利義昭からは池田勝正伊丹親興とともに摂津国の守護の1人として任命され「摂津三守護」と称された(『足利季世記』)。
以後、足利幕臣として京都周辺の外交・政治に大きく関与しながら、織田氏家臣としても信長の政治や合戦に関わるという義昭と信長の橋渡し的役割を務めている。特に永禄12年(1569年)10月には、信長に援軍を要請した播磨国赤松氏の援軍として、備前国浦上氏攻めに参加している。
その後、惟政は所用で美濃国にいる信長のもとへ向かう途中、信長から蟄居を命じられた報を受け取る。ルイス・フロイスによれば他に「引見の不許可」「惟政が近江に持っていた城の破壊」「収入のうち2万クルザードの没収」という厳しい処分だった。フロイスはこれを朝山日乗が信長に讒言したためと記しているが、同時期に信長と足利義昭の関係が悪化している事が大きな原因と推測されている(惟政は幕臣)。惟政はこれに剃髪して抗議した。
元亀元年(1570年)、惟政は京で越前攻めに向かおうとしている信長に謁見すると、信長はその地位を回復した。フロイスによれば3万クルザードの俸禄を加増されるなど、非常に厚遇されたという。6月28日の姉川の戦いには織田氏方として参加したようである〔ただし、この姉川の戦いに参加したとする記録は宣教師の記録にあるのみで、合戦の同日に摂津国内で惟政が出した寺社への禁制の文書(今西文書)が存在する事や、他の公方衆も参戦していない事などから、実際に参加したかどうかは疑わしい。ただ、永禄12年(1569年)10月の浦上攻め後から、元亀元年(1570年)3月まで信長関係の資料に一切登場しなくなるのは事実であり、信長と義昭の対立の中で一時存在を疎まれたのは事実のようである。〕。
11月、多方面に敵を抱える形となった信長は将軍・義昭の権威を利用して六角氏と和睦をしているが、この際に、三雲成持三雲定持宛てに惟政が宛てた書状(福田寺文書)があり、かつて六角氏の影響下で同じ甲賀の土豪であった三雲氏との繋がりから、この六角氏との和睦にも一役買っていたものらしい。
元亀2年(1571年)、松永久秀、三好三人衆と手を結んだ池田知正を討つため、伊丹氏や茨木氏と共に摂津国白井河原の戦い茨木川畔)で池田氏家臣の荒木村重に敗れ戦死。多くの貫通銃創・刀傷を受けた上、首を取ろうとした相手にも傷を負わせて死んだという、壮絶な最期であった〔フロイス日本史より〕。
惟政の没後まもなく、子の惟長は高山友照右近父子により追放され、まもなく死亡し〔和田惟長の記事のように江戸時代まで生き延びたという(『寛政重修諸家譜』)説もあるが、いずれにせよ和田氏は没落している。〕、和田氏は没落することになる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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