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和田 朝盛(わだ とももり)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武将。鎌倉幕府の御家人。和田常盛の嫡男。 == 生涯 == 和田常盛の嫡男として誕生。和田義盛の孫にあたる。 『吾妻鏡』によると、鎌倉幕府3代将軍・源実朝に近習として仕え、実朝のお気に入りであったこといわれる。 建保元年(1213年)、北条氏に対して和田氏の一族が挙兵した和田合戦において、実朝と父祖との板ばさみになり、出家し実阿弥陀仏、高円坊と名乗り、京へ向かった。しかし、弓の名手であったため、その武勇が必要だった祖父・義盛は、叔父・義直(よしなお、義盛の四男)を遣わし、その中途の駿河国から連れ戻させられた。この和田合戦では一族とともに戦い敗れるが、朝盛は生き延びた。 承久3年(1221年)の承久の乱の際には後鳥羽上皇方につき、幕府側についた嫡男・家盛と敵味方に分かれて参戦した。乱後は逃亡していたが、嘉禄3年(1227年)6月に捕縛された。 その後の動向ははっきりしないが、三浦半島の三浦市初声(はつせ)町の高円坊に墓(朝盛塚)があり、その地名も朝盛の法名から取ったものと伝えられている。 また、江戸時代の『寛政重修諸家譜』の佐久間氏(三浦氏一族)の項の記述によれば、親族の佐久間家村(さくま いえむら)の養子となり越後国奥山荘に逃れ、その後尾張国御器所に移り住んだと記述されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「和田朝盛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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