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和田 秀樹(わだ ひでき、1960年(昭和35年)6月7日 - )は、大阪府出身の受験アドバイザー、評論家(教育・医療、政治・経済)、精神科医(川崎幸病院精神科顧問)、臨床心理士、国際医療福祉大学大学院教授(医療福祉学研究科臨床心理学専攻)、起業家、映画監督、小説家。 複数の大学、大学院の非常勤講師(後述)や東進ハイスクール顧問も歴任。ヒデキ・ワダ・インスティテュート、緑鐵受験指導ゼミナール代表。 検察官の和田雅樹(最高検察庁検事、元司法試験考査委員)は実弟。 == 経歴 == 会社員の家庭に生まれる。父親は関西大学夜間学部を卒業してカネボウに入社したが、学閥が慶應義塾大学の学閥である三田会(慶應閥)の会社だったため出世できず、そのため秀樹の母は子供たちに学歴の重要性を叩き込んだ〔和田寿栄子『子供を東大に入れる母親のちょっとした「習慣術」』p.54(祥伝社、2006年)〕。1965年(昭和40年)に、母親の意向で教育程度の高い私立幼稚園に入園した。大阪の公立小学校に入学した時には平仮名や片仮名から漢字の一部まで読み書きできるようになっていた。しかし授業中に立ち歩きをするような子だったため、母親は授業レベルが低いせいだと即断し、大阪市内の名門公立小学校に1年生の2学期から越境入学〔和田寿栄子『子供を東大に入れる母親のちょっとした「習慣術」』pp.125-126(祥伝社、2006年)〕。小学校2年生のとき、父親の転勤で東京都練馬区に転居。このとき、小学校で「関西弁、関西弁」と囃し立てられて仲間外れにされる〔和田寿栄子『子供を東大に入れる母親のちょっとした「習慣術」』p.75(祥伝社、2006年)〕。このため小2の2学期から近くに他の関西系企業の社宅も多い千葉県津田沼の社宅に移り、地元の小学校に転校〔和田寿栄子『子供を東大に入れる母親のちょっとした「習慣術」』pp.126-127(祥伝社、2006年)〕。小4のとき父親の転勤で兵庫県に転居し、塾に通い始める〔和田寿栄子『子供を東大に入れる母親のちょっとした「習慣術」』pp.129(祥伝社、2006年)〕。小6から伸学社に通い、私立トップ進学校である灘中学校に5番で入学。同級生に伊藤芳朗(弁護士)、飯泉嘉門(徳島県知事)、勝谷誠彦がいる。しかし入学後は勉強しなかったため灘では中の下の成績に落ちてしまった〔和田寿栄子『子供を東大に入れる母親のちょっとした「習慣術」』pp.158(祥伝社、2006年)〕。灘でも陰湿ないじめを受け、教壇の後ろの大きなゴミ箱に閉じ込められて鍵をかけられ、授業の間じゅうそこに押し込められたこともあった〔和田寿栄子『子供を東大に入れる母親のちょっとした「習慣術」』p.77(祥伝社、2006年)〕。その他、泳げないことが知られたときはプールに連れ込まれそうになり、2時間ほどクラブの部室に立てこもったこともあった〔和田寿栄子『子供を東大に入れる母親のちょっとした「習慣術」』p.78(祥伝社、2006年)〕。このとき、秀樹の母は「あなたの性格を直さないとどうしようもない」と言いつつ、「どうせあなたは自分を変えられないから、違うところで見返しなさい」「社会適応できないお前に会社勤めは無理だから、弁護士か医者の資格をとりなさい」と鼓舞激励して得意分野を見つけるよう促した〔和田寿栄子『子供を東大に入れる母親のちょっとした「習慣術」』p.78(祥伝社、2006年)〕。しかし灘出身の遠藤周作に触発され作家を目指すも1行も書けず、日本を脱出しようと高校1年のときに留学生試験を受けたが不合格になるなど、夢という夢が全部破綻したという。 灘在学中に解法暗記を中心とした勉強法を開発した。それは成績のいいクラスメートが書いたノートのコピーを丸暗記するという学習スタイルであった。高校2年のとき藤田敏八監督の映画『赤い鳥逃げた?』を観て衝撃を受けたことから熱狂的な映画ファンとなり、高校3年生のときは受験勉強の傍ら年間300本の映画を観賞した〔秋元康ナビゲート「夢中力」2007年6月7日「進学から銀幕まで感動伝え 映画 精神科医 和田秀樹さん」 〕。当時「1000万映画」と呼ばれる低予算映画が話題となっており、映画製作費を効率的に稼ぐ手段として医師を志し〔秋元康ナビゲート「夢中力」2007年6月7日「進学から銀幕まで感動伝え 映画 精神科医 和田秀樹さん」 〕、大学は東大理III、慶大医学部、慶大経済学部への現役合格を果たす。東大在学中は自主映画製作を手がけようとまず「東大生が選ぶアイドルコンテスト」を開催。しかし同コンテストで優勝した武田久美子を東宝映画『ハイティーン・ブギ』に持っていかれ、資金繰りもうまくいかず結局映画製作は頓挫し約150万円の借金を作った。その返済のためコンテストで知己を得たCanCamや週刊プレイボーイで原稿執筆のアルバイトをしたことが後の評論活動の下地を作った〔秋元康ナビゲート「夢中力」2007年6月7日「進学から銀幕まで感動伝え 映画 精神科医 和田秀樹さん」 〕。 中学受験に失敗して全くやる気をなくしていた弟に勉強法を教え、東京大学文科一類現役合格に導いた。その後、和田の弟である和田雅樹は東京大学法学部から現役で、かつ優秀な成績で司法試験に合格し、東京地方検察庁特別公判部副部長、東京高等検察庁検事兼東京地検検事を経て、2009年(平成21年)4月から法務省刑事局国際課長兼司法試験考査委員、2011年(平成23年)1月から法務省刑事局刑事課長、2012年(平成24年)1月から法務省大臣官房施設課長、2013年(平成24年)1月から法務省大臣官房審議官(矯正局担当)、2014年函館地方検察庁検事正、2016年最高検察庁検事〔時事通信2009.4.6法務省人事〕。 東大在学中は家庭教師、アイドルプロデュース研究会、ライター業、学習塾経営などに励み、医師国家試験の半年程前までほとんど大学での勉強はしていなかったという〔「わが子を東大に導く勉強法」PHP文庫 105ページ〕。1985年(昭和60年)に、東京大学医学部医学科を卒業した。卒業後の2年間の研修期間のうち、東大附属病院の第二内科に研修医として半年間勤務したが、それと同時期に福井一成が医局員として勤務している〔「東京大学第二内科名簿」(東大第二内科発行、昭和60年)〕。アルツハイマー病患者の肺炎に関する研究論文「Risk factors of aspiration pneumonia in Alzheimer’s disease patients (Gerontology 2001; 47:271-276)」で東北大学大学院より博士(医学)の学位を取得(博士課程修了ではない)。この点については学位論文認定過程に強い違和感を持ったため経歴では省かれることが多い〔HIDEKIWADA 2006/12/11 WEB辞書の書き込みに思う 〕。 中央大学大学院文学研究科、東北大学医学部、一橋大学経済学部、上智大学文学部での非常勤講師を経て、2004年(平成16年)より国際医療福祉大学教授、2006年(平成18年)より国際医療福祉大学大学院教授、2007年(平成19年)より一橋大学大学院特任教授を務める(一橋大学大学院については2009年(平成21年3月まで)。 自らの受験体験と家庭教師などの経験を生かし、『試験に強い子が引きつる本』で受験評論家デビュー。「中学、高校と灘では落ちこぼれだった自分が理三に現役合格した方法」として、「誰でも難関大学に受かる受験法」を宣伝文句に、受験アドバイザーとして受験界に確固たる地位を築く。 和田式勉強法は灘高校における勉強法、和田秀樹自身が開発した勉強法などに加え、最近取り入れた認知心理学に基づく勉強法で成り立っている。和田にとって認知心理学は専門外であるが、東大の認知心理学、教育心理学の研究会に3年以上参加している。 現在ベネッセの通信教育である、進研ゼミ高校講座の情報誌「My Vision」に「カイカン勉強スタジオ」という連載記事を書いている。 2007年(平成19年)12月8日に、第5回モナコ国際映画祭で初監督作品である長編映画『受験のシンデレラ』が、最優秀作品賞、最優秀男優賞、最優秀女優賞、最優秀脚本賞の4部門を受賞する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「和田秀樹」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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