|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 和 : [わ] 【名詞】 1. (1) sum 2. (2) harmony 3. peace ・ 田 : [た] 【名詞】 1. rice field
和田 稔(わだ みのる、1922年1月13日 - 1945年7月25日)は、福岡県小倉出身の日本海軍軍人。最終階級は海軍少尉。 == 来歴 == 福岡県小倉市立堺町尋常小学校、静岡県立沼津中学校、第一高等学校(一高)を首席で卒業後、現役で東京帝国大学法学部に合格。小学校校長を勤める温厚な父と、愛情深い母、兄思いの妹と弟の5人家族であった彼は、一高から東京帝大というエリートコースを順調に進み、都会に出て独り暮らしをするが、故郷が恋しくて、週末はよく沼津に帰郷していた。 帝大に入ってから、彼は学生生活と言いながら、軍事教練ばかりする生活に嫌気が差していた。日々、ラジオでは戦況の悪化が知らされている頃だ。近いうちに自分も戦場へ行く…と感じる毎日であった。そんな昭和18年(1943年)9月、法文科系統徴兵猶予停止案が発表されると、翌10月には明治神宮外苑で大々的に学徒出陣壮行会が行われ、参加せよ、と大学から命ぜられるものの、壮行会の日を間違えて不参加。同12月に赤紙なる召集令状を受け取り、同10日、大日本帝国海軍大竹海兵団(呉)に入団。二等水兵として約1ヵ月半をそこで過ごす。 昭和19年(1944年)1月27日、武山海兵団(横須賀)に移動。3,354名の予備学生中、首席だった事から学生長を命ぜられる。その後、多くの若者が憧れた飛行科を受験するが、体格で不合格。この時のショックは生まれて初めての挫折感だったようだ。 その後、魚雷艇を志望し、同年7月15日に航海学校(横須賀)に入学、既にこの時、人間魚雷「回天」について知る。3ヶ月の激しい訓練の後、同10月18日に特攻隊に志願するが、一度却下されている。その二日後、二度目の志願を提出し、許可される。同年10月23日に川棚(長崎県)の魚雷艇訓練所に入り、同11月26日には回天特攻隊隊員として光基地に赴くよう命ぜられる。 光基地では本格的な特攻訓練が始まり、同12月25日に少尉任官。昭和20年(1945年)は初頭から光基地での猛訓練が続けられ、同5月28日に最初の出撃命令が下る。同5月15日、最後の帰郷が許される。自分の事、全てを両親に話してしまいたい気持ちを抑制している。 出撃日25日は、五基の回天を搭載した「イ号363潜水艦」に搭乗、目的地は太平洋南方ウルシー方面。しかし、最初の出撃では発進の機会を得ず、同6月18日に帰投命令が発せられ、28日に帰国。昭和20年7月25日、光基地沖にて訓練中に行方不明となり、殉職とされる。享年23。 和田稔は、大竹海兵団入団以降、厳禁とされていた日記を手帳に書き続け、面会の都度、その手帳を油紙に包んで弁当箱のご飯の底に隠し、家族に手渡していた。 事故の際、底に突っ込んだままであった和田の回天は、終戦後の9月半ばの台風によって浮上漂流。潮流にのって近くの長島に流れ着く。米占領軍の監視下で、その回天は旧日本兵の手で開けられ、蓋を開けると白い二酸化炭素の煙が浮上。その下にあぐら姿で眠っているかのような和田稔の姿があった。窒息するまでの10時間以上を一人、狭く、薄暗く、寒い回天の中で過ごし、その間、3日分の食料を全部食い尽くしていた。遺体は長島の浜辺で荼毘され、白木の箱となって沼津に帰郷している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「和田稔」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|