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和田 通興(わだ みちおき、生年不明 - 天文23年(1554年))は、戦国時代の武将。河野氏の家臣。受領名は三河守〔北吉井村誌、170頁〕。和田通俊の孫。伊予国岩伽羅城(いわがら)主。 河野氏の家臣団内での抗争に関わっていたことが判明しており、小手滝城主・戒能通運に討ち取られた剣山城主である黒川通俊の子・通堯は通運を恨んでいた〔「えひめの記憶」 - [愛媛県史]愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行) - 愛媛県生涯学習センターホームページ 〕。その後、通堯は大除城主・大野利直と共同で通運を攻めた〔が、通興は通運を援助したため、通堯の攻城は失敗に終わった〔。 天文23年(1554年)に勢力を拡大した通興は主君・河野通宣に従わなくなったため、通宣は棚居城主・平岡房実に通興討伐を命じ、岩伽羅城を攻撃させた〔『戦国人名事典』(阿部猛、西村圭子編)853頁〕。岩伽羅城は落城し、通興は山ノ内へ逃げたがそこで自害して果てた〔。このことは村上吉継(来島氏の家臣)が高野山へ送った書状にも記載されている(高野山上蔵院文書)〔。 後に一族とされる和田通勝が召し出され、通宣によって岩伽羅城を与えられている〔。 == 脚注 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「和田通興」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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