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和白 : ミニ英和和英辞書
和白[わじろ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [わ]
 【名詞】 1. (1) sum 2. (2) harmony 3. peace 
: [しろ]
 【名詞】 1. white 

和白 : ウィキペディア日本語版
和白[わじろ]

和白(わじろ)は、福岡県福岡市東区の北部に位置し、およそ志賀島へとのびた海の中道の基部に当たる地域である。和白地区にはJR鹿児島本線香椎線西鉄貝塚線が走り、連なった丘陵に多くの住宅地を擁する。また、玄界灘博多湾という2つの海と古くから関わってきた地域であり奈多海岸和白干潟のように自然の景勝に恵まれた地域でもある。
和白は、元来、和白干潟北部付近の地域の名称であるが、広くは旧和白村・和白町にあたる海の中道の東部から基部全体、すなわち奈多・雁ノ巣から三苫を含む。
== 歴史 ==
和白の丘陵には 6 世紀末から 7 世紀の円墳群である「下和白塚原古墳群」があり〔 〕、また高美台の造成時には 6 世紀末の「宮前古墳群」など4群の古墳群が見つかるなど〔 〕、この地域では古墳時代末期には大きな農漁業集団が活躍していたと思われる。 10世紀の百科事典『和名抄』には糟屋郡阿曇(あずみ)という郷名が見え、一説には和白および北の新宮にあたり阿曇連の発祥地であるという〔 「阿曇郷」の項。〕。 阿曇連は志賀島などを本拠として朝鮮半島との往来も含む海洋で活躍し、天皇に仕えた『記紀』などに見える古代の神話的有力氏族である。
下って明治の町村制施行時には、新制の和白村となった地域に上和白下和白三苫奈多塩浜の5つの村があった。 うち上和白・下和白は17世紀初め頃までにひとつの村から分かれたと見られる〔 「和白村(近世)」の項。〕。 18世紀の『筑前国続風土記』では和白は「わしら」と読まれている。
これらの村名のうち和白について、『新唐書新羅伝』に新羅の全会一致の合議制度を「和白」といったという記事があることから〔 「事必與衆議、號『和白』、一人異則罷」とある。〕、地名の和白にも会議の意味があるとし、さらにこれは神功皇后がここで三韓征伐の軍議を行ったことから来るもので、和白を日本の議会の発祥地だとする主張もある〔『神功皇后御軍議地としての和白』 黒田侯爵家記録編纂主任であった中島利一郎の説。本営は筑紫の珂志比(今の香椎)に置かれ、軍議が開かれた場所が和白であるとする。〕。 また、入り江が深く入り込んだ地形を表すという推測もある。 和白の地は立花山城にも近く、戦国時代の1567年(永禄10年)には、かねてから筑前の覇権を争っていた宗像の毛利勢と立花山城の大友勢との間で小規模な合戦が起こっている。
三苫の名には北部九州の多くの地名と同様に神功皇后伝説と結びついた地名説話があり、イカツオミ(烏賊津臣、伊香津臣)が皇后遠征の無事を祈って荒れた海中に投げた3枚の「苫」(船の覆い)が、現在「綿津見神社」(八大龍王社)のある海岸に漂着したのだとされる〔 「三苫」の項。 〕。 その後、イカツオミを祖とし、香椎宮の大宮司であった三苫氏がこの地を領地としたという。 ここの綿津見神社には、廃仏毀釈でも破壊をまぬがれた平安時代後期の作と見られる伝虚空蔵菩薩像など古い仏像群が祀られている〔 〕。 村の名は平安期の『和名抄』に挙げられた糟屋郡の郷名には見えないが、遅くとも室町期には「三戸摩」の名で現れる〔 「三苫郷(中世)」の項。〕。
奈多の地名は現在の海の中道の東半分、さらにおそらくは海の中道一帯をも表した〔。 18世紀の『筑前国続風土記拾遺』によれば、奈多の名は波が立つことから来たともいう。 奈多の集落は幕末までは三苫村に属し、農家とともに、玄界灘・博多湾の両岸で漁業に従事するものがおり、海産物の他、ショウロサツマイモなどの産物に恵まれて暮らしぶりは豊かだったという〔。 玄界灘側の奈多海岸には巨大な砂丘が広がり、この地は平安時代から絶景の地として知られた。 砂丘の上には農漁業の神として地元の人々の信仰を集めた「式内神社」(三郎天神)がある〔 〕。 江戸時代初期より現在にいたるまで大規模にクロマツが植林され、現在も4 kmにわたって奈多の松原が続く。
1703年より、黒田藩の資金で和白干潟の北端が埋め立てられ新たに塩浜村が作られた〔 「塩浜村(近世)」の項。〕。その名の通りここでは製塩が行われ「和白塩」として知られた。その後、1852年に大波により堤防が決壊したが幕末に藩士松本平内の尽力により新たな築堤が行われ、製塩は明治末期まで行われていた〔 〕。
1889年(明治22年)にはこれら各村を大字として糟屋郡和白村が成立し、翌1890年に九州鉄道(現JR鹿児島本線)、1904年に石炭運搬のための博多湾鉄道(現JR香椎線)、さらには1924年に博多湾鉄道汽船の現西鉄貝塚線がこの地を通って敷設されたが、村自体は農漁業中心の比較的小さな村であった。
1936年(昭和11年)には、大日本航空が海の中道東部の幅広い砂嘴部に福岡第一飛行場(雁ノ巣飛行場)を建設した。 地形を生かして直行した2本の滑走路と水上機用のスリップを備え、大陸に近い地の利を生かし主に東京・大阪とアジアの植民地とを結んだ。 1945年、占領とともに飛行場をはじめとする海の中道の東部はアメリカ軍に接収され、飛行場は空軍の輸送基地ブレディ・エア・ベース (Brady Air Base) となった。 これにより和白村では基地労働者で人口が倍増し商工業も発展することになった〔 「和白村(近代)」の項。〕。
1954年には和白町となり、6年後には福岡市に編入された。 アメリカ軍基地は1972年に全面的に廃止・返還され、飛行場跡地には1970年より市によって各種スポーツ施設を備えた雁の巣レクリエーションセンターが作られた。 また、丘陵地に高美台美和台など住宅街が数多く作られ、現在では福岡のベッドタウンとして発展している。
和白から唐原にかけての遠浅の和白干潟は博多湾に残った数少ない自然海岸であり、都市部に近いながら、冬季には多くの海鳥で賑わう野鳥の宝庫として知られる。 1978年には干潟を含む地域の埋め立て計画が公表されたが反対運動が起こり、人工島化やエコパークゾーンの設定など計画の変更を余儀なくされた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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