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唐人 親広(かろうど ちかひろ、生没年不詳)は、戦国時代の武将。炮術師。式部大輔。別名に「清房」。子に丹後守広親(守広、秀政)。姓は加老戸とも。 == 略伝 == 唐人氏は越中国新川郡小出城主という。その姓から祖は渡来人との推論もあるが定かではない。 『見聞雑録』によれば、親広は神保氏に仕えていたが、加賀の一向一揆勢が富山城を攻めた時、一揆方が恩賞をもって誘い、親広はこれに乗って内応し城が落ちたという。これは状況からみて元亀3年(1572年)の富山城攻防戦の時と思われるが、真偽は不明である。しかしその後上杉方として活動しており、天正4年(1576年)、上杉軍の能登侵攻に従軍し、甲山城将となっている。ところが上杉謙信が急死すると織田方に寝返り、先に織田方に降っていた椎名小四郎の配下となる。その後、神保長住が親広を家臣に迎えようと引き抜きを図り、柴田勝家が両者を仲裁している。その後親広は神保覚広、小島職鎮らと共に密かに上杉方に通じ、天正10年(1582年)3月、武田氏の扇動に乗り、小島と共に一揆を起こして富山城を襲い神保長住を幽閉した。しかし間も無く織田軍により鎮圧され、城を明け渡して退去している。 本能寺の変が勃発すると再び蜂起し、富山城を攻め落としている。しかし間もなく佐々成政の反撃に遭い、小出城に後退してこれを死守するも上杉軍の後詰めを得られず孤立し、城を明け渡して越後へ退去した。天正12年(1582年)9月には、上杉軍の越中侵攻の先鋒として境城攻略に功があった。その後、直江兼続抱えとして勝山城(落水城)に在番している。天正16年(1588年)正月、主君の上杉景勝他22名と連歌会に出席して一首を詠んでおり、風流にも心得があった。この頃には諱を「清房」と変えている。 慶長5年(1600年)以前に越後にて死去という。 また、親広は岸和田流炮術の名人で、上杉家の炮術指南役となり、『私伝之集』を著し、その秘術は息子広親、さらに代々式部を名乗る門弟に伝えられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「唐人親広」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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