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唐 咨(とう し、生没年不詳)は、中国三国時代の武将。徐州利城郡の人。『三国志』魏志「諸葛誕伝」に附伝されている。その他、魏志・呉志の各所に名が窺える。 魏で反乱を起こしたが失敗し、呉に仕えた。呉では厚遇を受け武官として出世した。諸葛誕の反乱の援軍に派遣されたが敗れて降伏し、魏に再び帰参した。 == 生涯 == 魏の曹丕(文帝)の時代である黄初年間、利城郡において反乱が起き、太守が殺害された後に唐咨が反乱の指導者として祭り上げられた〔『三国志』魏志「文帝紀」によると黄初6年(225年)6月。兵士蔡方らが郡を挙げて反乱を起こし、太守の徐質を殺害したという。〕。しかし、曹丕が派遣した追討軍〔『三国志』魏志「文帝紀」によると、屯騎校尉の任福・歩兵校尉の段昭が中央より派遣され、青州刺史の王淩らが協力したという。『三国志』魏志「呂虔伝」によると、徐州刺史の呂虔が従軍。〕により反乱は鎮圧されてしまった。このため唐咨は船で海中に逃走し、呉の孫権を頼って落ち延びた。 嘉禾3年(234年)、廬陵郡・会稽郡・南海郡で賊が蜂起した〔『三国志』呉志「呂岱伝」〕。このため翌年(235年)〔『三国志』呉志「呉主伝」〕、唐咨は孫権の命令で劉纂と共に呂岱の指揮下につけられ、反乱の鎮圧にあたった。さらに翌年(236年)、唐咨は廬陵の賊である羅厲を捕虜とした〔『三国志』呉志「呉主伝」〕。 豫章・臨川の賊である董嗣の略奪を阻止するため、吾粲と共に兵士3000人を率いて防戦したが、数ヶ月経ってもこれを退けることはできなかった〔『三国志』呉志「周魴伝」〕。 赤烏2年(239年)冬10月、都督の廖式が臨賀太守の厳綱を殺害し、平南将軍を自称して反乱を起こした。反乱の影響は零陵郡・桂陽郡や交州の蒼梧郡・鬱林郡にまで及び数万人の規模となった。このため唐咨は、孫権の命令で呂岱と共にその討伐にあたり、1年ほどでこれを鎮圧した〔『三国志』呉志「呉主伝」〕。 五鳳3年(256年)、同じ魏からの降将である文欽とともに進言し、孫峻に北伐を実施させた。同年8月に派遣された呂拠率いる先発隊に、唐咨も前将軍として従軍した。途中で孫峻が急死し孫綝が継ぐと、呂拠はこれに不満を持ち反乱を起こそうとした。しかし、唐咨は孫綝の命令を受け文欽と共に呂拠を攻撃し、これを滅ぼした〔『三国志』呉志「三嗣主伝」〕。 呉においては左将軍にまで出世し、列侯され持節も与えられたという。 甘露2年(258年)5月、魏に対し反乱を起こした諸葛誕への援軍の将の1人として、文欽らと共に寿春に籠城し魏軍と戦ったが、魏の包囲陣の前に呉の後続の援軍が断れたため、城中に孤立した(諸葛誕の乱)。 翌年(259年)3月、寿春が落城し唐咨は捕虜となった。魏の司馬昭は諸葛誕・文欽・唐咨を三人の謀反人と呼び、魏の人達も唐咨が捕虜になったことを嘲笑した。しかし、司馬昭が唐咨を赦免し安遠将軍に任じるなど、厚遇を与えたため、人々は司馬昭の徳を賞賛したという。なお、他の呉からの降伏者も同様に厚遇を受けたため、呉側も彼等の家族を処刑するようなことはしなかったという。 景元3年(262年)冬、司馬昭は腹心の鍾会を鎮西将軍・仮節都督関中諸軍事に任命し、蜀漢攻撃の準備をすすめる一方で、東方の州に船の建造を命じた。さらに唐咨に命じて大型の海上船を建造させ、表向きは呉攻撃の準備に見せかけようとしたという〔『三国志』魏志「鍾会伝」〕。以後の事績は不詳である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「唐咨」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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