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昭陵(しょうりょう)は、唐の太宗李世民(599年 - 649年)の陵墓であり、陝西省西安市の北方に点在する唐の十八陵の一つ。 == 概要 == 往古の唐の都である長安城(西安市)の西北方に位置しており、現在の行政区画では、咸陽市礼泉県の北東25kmに位置する九嵕山(きゅうそうさん)麓にある。唐の十八陵の中でも最大の規模を誇る。 設計を閻立徳、閻立本兄弟が行い、その造営は、貞観10年(636年)に始まった。長孫皇后の陵墓として造営が始まり、太宗自身も、そこに葬られた。唐代の他の陵墓と同様、墳丘を造営したものではなく、山陵によって玄室が築かれている。太宗が、人民の労力を軽くするために意図したものであると伝えられる。 その陵前は、乱冢坪と呼ばれ、そこから山麓にかけて、総数200近くと称せられる、初唐の宗室諸王や公主、魏徴・李靖・李世勣・房玄齢ら功臣たちの陪葬墓を見ることができる。太宗の死去の際には、王羲之の『蘭亭叙』もおさめられたと伝えられる。陪葬墓には壁画が残っているものもある。 五代十国の後梁の時代、軍人の温韜によって盗掘され、合葬されていた多くの名品が運び出されている。また、『南唐書』の鄭元素伝には、元素が昭陵を盗掘しようと中に入った時のさまが描写されており、そこから昭陵内部の様子をうかがい知ることができる。 昭陵の地上に見られるのは、玄武門の一部と摩滅した石碑の一部だけである。太宗遺愛の名馬の像を板石に刻ませたという「昭陵六駿」が有名である。太宗が隋末の戦乱の際に乗馬していた馬を石に浮彫したもので、「白蹄烏」、「特勒驃」、「颯露紫」、「青騅」、「什伐赤」、「拳毛カ〔カの字体は、馬偏に瓜〕」という名で知られる。 そのうち4駿は西安碑林に収蔵され、「颯露紫」と「拳毛カ」2駿はアメリカのフィラデルフィアに渡った。全ての石にあるひび割れは、分割して運んだためであると伝えられる。 また、碑文も多く残り、欧陽詢による「温彦博碑」や褚遂良による「房玄齢碑」などが伝わっている。 1979年、昭陵博物館が完成した。また、全国重点文物保護単位に指定されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「昭陵 (唐)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Zhao Mausoleum (Tang dynasty) 」があります。 スポンサード リンク
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