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十二単(十二単衣、じゅうにひとえ)は、平安時代の10世紀から始まる女性用の装束である。 五衣唐衣裳を十二単と呼ぶ風潮は、「平家物語」の異本『源平盛衰記』の中に「弥生の末の事なれば、藤がさねの十二単の御衣を召され」〔「源平盛衰記」 建礼門院平徳子入水の段〕とある言葉の意味を、世間では取り違えられて広まったものとみられている。五衣唐衣裳を宮中では十二単とは呼ばないからである〔高田 倭男 『服装の歴史』 2005年 中公文庫 ISBN 4-12-204611-4〕。また、昔は袿の枚数を「単」で表し、2枚重ねると「二単」、7枚重ねると「七単」というような語彙もあった。この記述では単を着て、言葉のまま上に12枚の袿を重ね着した重ね袿姿で平徳子は入水したという意味になる〔八代国治, 早川純三郎, 井野辺茂雄 編 『国史大辞典 挿絵及年表』 1908年 吉川弘文館〕。しかし、元来の意味とは違っても、五衣・唐衣・裳を十二単と呼ぶ俗称は一般的に使用されている〔晴装十二単装束着用之事 - 裳・唐衣・表着・打衣・五衣・単を重ねて打ち着たる様を云ふもの〕。 十二単は20kg程あり、四季に応じた名称の「かさね」を用いた。また、宮中では女性の「束帯」に当たる装束として「物具装束」〔「十二単」に比礼(ひれ。長細いスカーフのような物)、桾帯(くんたい、長い布で作られたベルト)、宝冠(ほうかん)を追加、奈良時代の感じを残す。〕が平安後期まで存在したが、女性が公儀の場に出るのを嫌う風潮もあって、着用される機会が減り廃れた。 ==「かさね」(重ね・襲)== 日本の朝廷の伝統的な装束では、複数の衣を重ねることが基本で、その色の組み合わせ、あるいは袷の衣服の表地と裏地の色の組み合わせを「かさね」(襲・重)と呼ぶ〔長崎盛輝等は、袿の上下に重ねることを「重ね」といい、袷の表地と裏地の色の取り合わせによって透けて見える具合を「襲」と使い分けている。〕かさねは袖口・裾などに衣がすこしずつ覗き、十二単の着こなしの工夫が多くなされたところでもある。『栄花物語』等には当時の女房が工夫を凝らしたさまが詳述されている。ある女房は重ねに凝り、通常よりも多く20枚以上の衣を重ねたが衣の重さのために歩けなくなったとある。このように平安時代は袿の枚数に定めがなかったが、室町時代には5枚となり、それ以後「五衣(いつつぎぬ)」と呼ばれ女房装束に定着されるようになった。 このような重ね・襲ねの取り合わせを「重ね・襲ねの色目」というが、色目については主に季節感を取り入れた組み合わせになっている。春夏秋冬・または植物や色単体のグラデーションによりおびただしい数の種類があり、着用の季節や行事が厳密に定められていた。これらの季節感などを無視した取り合わせを用いることはマナー違反・センスがないと見なされ、当時の女性が工夫を凝らして装ったことが当時の物語や日記などに垣間見ることができる。 襲ねの色目には裏と表の取り合わせで固有の呼び名があり、古典でしばしば言及される代表的な重ねとして、服喪の際の青鈍(あをにび。表裏とも濃い縹色)、春の紅梅(表は紅・裏は紫または蘇芳)桜(表は白・裏は赤または蘇芳)などがある。 重ねも同様で、色の重ね方に決まりがあり、重ねる色の数やグラデーションの具合でそれぞれに固有の呼び名(裾濃・匂いなど)があった。ただし、重ねと襲には同じ名称のものもあるため、古典研究の際の混乱の元にもなっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「十二単」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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