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李 淵(り えん)は、唐の初代皇帝。隋末の混乱の中で長安を落として根拠地とし、恭帝侑を隋の正統として立てたうえで、その禅譲により唐を建国した。 李淵の出自である隴西李氏は、史書では西涼の武昭王の末裔で、隴西郡成紀県を本貫とする漢民族とされている。しかし、一方で「実際は鮮卑系の出自で本来の姓も大野氏であり〔中華民国の学者姚薇元の『北朝胡姓考(修訂本)』(中華書局、2007年)では唐がテュルク系高車の出自である代郡の李氏とする見解を示している。〕、中原の支配権を正当化するために自身が漢民族の末裔であることを主張した」という説もある〔張競(1997年)〕〔中華民国の学者陳寅恪は『唐代政治史述論稿』において、唐の李氏は趙郡の出身であり、鮮卑化した漢族であるとの見解を示している。〕。 == 来歴 == === 隋の唐国公 === 李淵は北周の唐国公・安州総管を務めた仁公李昞の子として生まれた。その出自である隴西李氏は北周の八柱国の家系で、かつて北魏においては皇后を出す資格のある家柄の一つとして重んじられた北朝の名門だった。李淵が隋の文帝の信任を得るきっかけとなったのは、その独孤皇后が李淵の叔母にあたることによる。李淵は先ず隋の千牛供身となり、譙 隴二州刺史・岐州刺史・滎陽 楼煩二郡太守・殿内少監・衛尉少卿などを歴任した。 文帝の後に煬帝が立って高句麗遠征を開始すると、李淵は懐遠鎮で兵站を監督した。やがて楊玄感の乱が起こると弘化留守となり、関右の諸軍を統率して楊玄感の進軍を防いだ。615年に山西 河東慰撫大使に任じられると、龍門の母端兒の乱を掃討、また絳州の柴保昌を討伐した。突厥が隋の辺境を侵すと、馬邑太守の王仁恭とともに突厥軍を撃退した。617年には太原留守に任じられた。 次子の李世民や晋陽令の劉文静らの使嗾により〔『旧唐書』、『新唐書』の両正史では、李淵の挙兵は李世民の画策によるものとされている。しかし挙兵当時には未成年だった李世民の策謀で李淵が動かされたというのは疑わしい。太宗李世民を最高の名君に仕立て上げるために、高祖李淵の人物像は優柔不断で女と酒に弱い人物として矮小化され、李世民を唐の実質的な創建者として美化したものと考えられる。これはなどの説。〕、隋に対する反乱を決意。6月に諸郡に檄を飛ばして起兵し、一気に軍を南下させ、11月には長安(当時は大興城)を陥れた。長安の留守をしていた代王楊侑を擁立して隋の恭帝とした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「李淵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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