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喜光寺(きこうじ)は、奈良県奈良市菅原町にある法相宗の寺院。この一帯が菅原氏の治領であったことから〔『大和名勝』藤園主人述. 金港堂, 明36.4〕「菅原寺」とも呼ばれる。山号は清涼山。本尊は阿弥陀如来。奈良時代の僧・行基が没した地とされている。薬師寺の別格本山。 == 歴史 == 奈良時代に架橋、土木工事などの社会事業に携わり、東大寺大仏造立にも貢献した僧・行基が創建したと伝わる。『行基年譜』(安元元年・1175年成立)によれば、菅原寺(喜光寺)は、養老5年(721年)、寺史乙丸なる人物が自らの住居を行基に寄進し、翌養老6年(722年)行基がこれを寺としたものであって、行基建立の四十九院の一つであるとされている。寺地は平城京の右京三条三坊の九ノ坪、十ノ坪、十四ノ坪、十五ノ坪、十六ノ坪の計5坪を占めていたという。なお、現・喜光寺本堂の位置は、右京三条三坊の十五ノ坪にあたる。『大僧正舎利瓶記』によれば、行基は天平21年(749年)この寺で82歳で死去したという。なお、行基の墓は喜光寺から直線距離で7キロ離れた生駒市有里の竹林寺にある。前出の『大僧正舎利瓶記』は、行基墓から出土した銅筒に記されていたものである。〔千田稔『天平の僧 行基』、pp.12 - 15; 『国史大辞典』(吉川弘文館)第8巻、p.62(「菅原寺」の項)〕 1969年に境内の発掘調査が行われ、現・喜光寺本堂は、奈良時代の創建本堂の跡に建てられていることが確認された。創建金堂の基壇は東西が28メートル、南北が21メートルの規模であった。そこから南に42メートル離れた場所に南大門跡とみられる建物跡があったが、礎石は残されていなかった。〔千田稔『天平の僧 行基』、pp.12 - 15〕 一方、「菅原寺記文遺戒状」という別の史料によれば、この寺は霊亀元年(715年)、元明天皇の勅願により建てられたものという。創建当初は菅原道真の生誕地と伝わる菅原の里にあることから「菅原寺」と呼ばれていた。伝承によれば、聖武天皇が参詣した際に当寺の本尊より不思議な光明が放たれ、これを見た天皇が喜んで、「菅原寺」を改めて「喜光寺」としたという。『続日本紀』によれば、延暦元年(782年)、この地に住んでいた土師氏が桓武天皇から菅原姓を賜ったという。 中世には興福寺の末寺となり、直接には興福寺の塔頭の一つであった一乗院に属した。 戦国時代に伽藍のほとんどが兵火により焼失したが、間もなく再建された。 明治時代には薬師寺の末寺となった。現在は同寺唯一の別格本山という。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「喜光寺」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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