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喜多一二 : ミニ英和和英辞書
喜多一二[に]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [た]
  1. (n,pref) multi- 
: [いち]
  1. (num) one 
一二 : [いちに]
 【名詞】 1. the first and second 2. a few 
: [に]
  1. (num) two 

喜多一二 ( リダイレクト:鶴彬 ) : ウィキペディア日本語版
鶴彬[つる あきら]
鶴 彬(つる あきら、1909年1月1日(戸籍上、実際には前年12月といわれている) - 1938年9月14日)は、日本プロレタリア文学の影響を強く受けた反戦川柳作家石川県河北郡高松町(現かほく市)生まれ。本名、喜多 一二(きた かつじ)。佐高信は鶴を「『川柳界の小林多喜二』と言われた」と自著で紹介している〔佐高信 『佐高信の斬人斬書』 徳間文庫 [さ-10-7] ISBN 4198901236、19p〕。また、その死の唐突さのため、官憲による赤痢菌注射説が噂されたと指摘している。具体的な出典は述べられていない〔佐高信 『日本に異議あり』 講談社文庫 [さ-33-13] ISBN 4062057921、15p〕〔佐高信 『タレント文化人200人斬り 上 日本をダメにする100人河出文庫 [さ-33-1] ISBN 978-4309413808、38p〕。
== 来歴 ==

*1908年(明治41年)12月(戸籍上は1909年1月1日) 竹細工職人喜多松太郎と、その妻スズ(寿ず)のもとに次男として生まれる。生後すぐ、機屋を営む叔父・喜多弁太郎(喜多郎、徳次郎とも)の養子となる。
*1917年(大正6年) 父死去。母の再婚・上京のため、兄、弟妹らも養子となる。小学校在籍中から、『北国新聞』の子ども欄に短歌・俳句を投稿。
*1921年(大正10年) 尋常小学校卒業。師範学校進学を養父に拒まれ断念、高等科に進学。近所の川柳家、岡田太一(澄水)に川柳の指導をうけ、句作をはじめる。
*1924年(大正13年) ペンネーム「喜多一児」で「北国歌壇」(『北国新聞』)に作品発表。
*1925年(大正14年) 専門学校入学者資格検定試験に合格するも進学かなわず。田中五呂八の指導のもと、川柳雑誌『影像』『氷原』に作品発表。
*1926年(大正15年)養父経営の工場が閉鎖していたため、いとこを頼って大阪で工場労働者として1年はたらき、高松町に帰郷。このころ森田一二の影響をうけて、プロレタリア川柳へと傾斜。『氷原』『影像』など、川柳誌で続々とボイコットの対象となって、発表の場をせばめられる。
*1927年(昭和2年) 上京して、井上剣花坊・井上信子に師事。活動の軸を『川柳人』にシフト。
*1928年(昭和3年) 高松町に帰郷。「高松川柳会」を設立し、プロレタリア川柳を唱導。全日本無産者芸術連盟(ナップ)高松支部結成。高松川柳会への弾圧で喜多一二ら4名検束される。筆名を「山下 秀」、さらに「鶴 彬」と。
*1930年(昭和5年) 徴兵検査で甲種合格、第9師団歩兵第7連隊金沢)に入隊するが、陸軍記念日の「質問」などにより重営倉に〔飯田則夫 『ヴィジュアル新書 大日本帝国の戦争遺跡』 ベスト新書 479 ISBN 978-4584124796、116p〕。
*1931年(昭和6年) 『無産青年』所持等により、いわゆる七連隊赤化事件の主犯とされ、治安維持法違反で大阪衛戍監獄に収監、刑期1年8か月。
*1935年(昭和10年)10月 上京。
*1937年(昭和12年) 東京深川の木材通信社に就職。12月作品が反軍的として治安維持法違反で再逮捕、中野区野方署に留置される。
*1938年(昭和13年)8月 野方署で赤痢に罹患。豊多摩病院に入院、死去。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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