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ジャニー 喜多川(ジャニー きたがわ、Johnny H. Kitagawa、本名:ジョン・ヒロム・キタガワ(John Hiromu Kitagawa)、漢字表記:喜多川 擴(きたがわ ひろむ)、1931年(昭和6年)10月23日〔雑誌『女性自身』(1967年9月25日号)の裁判記事では、当時の年齢が「38歳」(つまり1928年生まれ)と表記されている。〕 - )は、日本の実業家・芸能プロモーター・音楽プロデューサーで、ジャニーズ事務所、ジェイ・ドリーム、ジャニーズ出版、ヤング・コミュニケーション、つづきスタジオの社長である。アメリカ、カリフォルニア州ロサンゼルス市生まれの日本人。 == 来歴 == === 生い立ち === 父親は高野山米国別院の僧侶(第3代主監)で、1946年(昭和21年)から1949年(昭和24年)までプロ野球チーム「金星スターズ(元・ゴールドスター、後・大映スターズ)」のマネージャーだった喜多川諦道。諦道の次男として、1931年(昭和6年)10月23日にアメリカ・ロサンゼルスに生まれる。姉はメリー喜多川、兄はNASAでアポロの設計もしていた科学者だったが1980年代に50代半ばで死去している。 1933年、喜多川一家は日本に渡り、大阪で暮らした。しかし間もなくして母親が死去、やがて第二次世界大戦が始まると子供たちだけで和歌山県那智勝浦町に疎開した。 日本の敗戦後、1947年に子供たちだけでロサンゼルスに帰国し、現地の高校に入学した。高校時代にはロサンゼルスの「アーニー・パイル・シアター」にて、ミュージックメイカーのアシスタントとして、アルバイトを経験している。 ロサンゼルスの高校を卒業後、姉と同じロサンゼルス・シティー・カレッジ〔ディプロマミルとされる「ロサンゼルス市立大学」(シティユニバーシティロサンゼルス、City University Los Angeles)とは異なる。〕に進学。 1950年(昭和25年)、美空ひばりが育ての親・川田晴久と共にアメリカ公演を行ったが、ロサンゼルス公演の際、父の勤務先だった真宗大谷派東本願寺ロサンゼルス別院が会場となったため、ステージマネージメント全体を担当する。川田の知遇を得ると共に、ひばりとも親しく交流するようになった。このことが、日本芸能界への進出のきっかけとなる。 1952年(昭和27年)に再来日。アメリカ大使館に陸軍犯罪捜査局(CID)の情報員(通訳の助手)として勤務する。アメリカ軍関係の仕事の一環として、当時勃発していた朝鮮戦争による戦災孤児に英語を教えるために、日本でわずか10か月で朝鮮語をマスターし、すぐ韓国の板門店に出向き、1年2か月間に渡って子供たちに英語を教えた。 さらに、再来日後はアメリカ大使館軍事顧問団に勤務。その傍ら上智大学国際部(現在の国際教養学部)に進学し、上智大学を卒業。大学在学中の1955年(昭和30年)、バンドを結成し芸能界へ参入した。以降は日本に永住している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジャニー喜多川」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Johnny Kitagawa 」があります。 スポンサード リンク
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