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喜多川 藤麿(きたがわ ふじまる、生年不詳 - 文政13年(天保元年(1830年)春)〔下総国取手の国学者・沢近嶺の随筆『春夢独談』に、40歳の時自分の肖像画を藤麿に描いてもらったことや、藤麿が文政13年(天保元年、1930年)春に没したことが記されているという(『本庄市史(通史編2)』)〕)とは、江戸時代の浮世絵師。 == 来歴 == 喜多川歌麿の門人といわれている。姓不詳だが、後述する史料により内藤とも考えられる。名は維則。不二麻呂・紅霞斎・紫園・紫峰・紫霞斎・芳州・蓉山・酒仙など数多くの画号をもつ。ただし、肉筆美人画の落款は大半が「藤麿」で、「喜多川」の画姓が記された作品は報告されていない。武家の出身と言われる。錦絵や版本の挿絵はほとんど見られず、僅かに摺物 「花見の踊り 」(ボストン美術館所蔵)のみ確認されている。寛政から文政期(1789年 - 1830年)にかけて肉筆美人画を描く。その画風は師の歌麿風に追随せずに、独自の雰囲気をかもし出している。歌麿弟子入り以前は南画を学んでいたと思われ、他にも窪俊満や歌川豊春との関係や、芸術を愛好した狂歌師らとの交流も指摘されている。文政8年(1825年)11月刊の『上野下野武蔵下総 当時諸家人名録』に「業和画 唐画 紫峰 号客山(蓉山の誤りか) 酒泉堂 武(蔵)本庄 内藤藤麿」とあり、文政初頭頃には本庄(現在の埼玉県本庄市)に来ていたとも推測され、当地で没した〔『本庄市史(通史編2)』〕。墓所は不明。 現存作品数は50点ほどで、肉筆美人画の代表作として「遊女立姿図」(東京国立博物館所蔵)、「美人春夏秋冬図」(浮世絵 太田記念美術館所蔵)、「見立六歌仙図」(たばこと塩の博物館所蔵)などがある。なかでも「見立六歌仙図」は、見立てられた人物6人をそれぞれ写実的に捉えた傑作といえる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「喜多川藤麿」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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