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喜多見勝忠 : ミニ英和和英辞書
喜多見勝忠[きたみ かつただ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [た]
  1. (n,pref) multi- 

喜多見勝忠 : ウィキペディア日本語版
喜多見勝忠[きたみ かつただ]

喜多見勝忠(きたみ かつただ、永禄11年(1568年)- 寛永4年12月26日1628年2月1日)は、戦国時代から江戸時代初期の武将、名族秩父氏の流れを汲む武蔵江戸氏の23代当主で喜多見氏初代。江戸勝忠(えど かつただ)とも。江戸幕府旗本。子は、正忠重恒重勝、娘(佐久間実勝室)、娘(伊丹勝政室)。
勝忠は世田谷吉良氏の家臣として、古河公方、次いで後北条氏に属した。天正18年(1590年)の小田原征伐では後北条氏とともに小田原城に籠城するが敗れ、江戸に入府した徳川家康の家臣となり、喜多見村500石を安堵され旗本となり、姓を喜多見氏に改め、名も勝重に改めたとされる。その後、九戸政実の乱では岩手沢まで出征し、関ヶ原の戦い大坂の陣に従軍した功績から元和元年(1615年)に近江国郡代となる。翌年堺奉行となり、後陽成院の葬礼を務めるなどの功績を挙げたことから、2000石にまで加増された。
将軍徳川秀忠は南宗寺入来に際し、を勝忠の邸に枉げられ、勝忠は茶を献じて小袖および黄金を下賜されたとされる。
寛永4年(1627年12月26日)、勝忠はで堺奉行在職中に病死。享年60。勝忠が堺奉行に奉じてから十年の間、牢獄に訴訟を起こした者は無く、街には奸人も無く、市民善政を謳歌したとされる。死後、家督は次男の喜多見重恒が継いだ。このとき、2000石の所領は1000石を重恒、残る1000石を三男喜多見重勝が継いだ。孫の重政は2万石の譜代大名となって喜多見藩を立藩、喜多見氏は藩主家となった。




抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「喜多見勝忠」の詳細全文を読む




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