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喜連川氏(きつれがわ し)は、足利氏の後裔。足利尊氏の次男で室町将軍代理家だった鎌倉公方の足利基氏を祖とする。その鎌倉公方(1455年(康正元年)に古河(こが)移転後は古河公方と自称す)から敵対独立した小弓公方系足利氏が直接の先祖にあたる。豊臣秀吉から下野国喜連川(現・栃木県さくら市)に所領を扶持された際に、喜連川を苗字としたのが興りである。 喜連川藩藩主家として、江戸時代を生き抜き、5,000石の旗本交代寄合ではあるが、10万石格の大名としての格式を与えられていた。明治維新をへて華族令で子爵の爵位を授けられた。2014年現在の喜連川足利家の当主は。足利公平である。 == 概要 == 鎌倉公方の後裔にあたる古河公方家と小弓公方家は後北条氏や千葉氏との戦によってすでに衰亡していた。しかし名門家系であったことから豊臣秀吉に再興を許された。秀吉は衰亡していた小弓公方家の足利国朝に対して古河公方家跡取の足利氏姫を娶ることを奨め、下野国喜連川で400貫の所領を与えた。喜連川は旧古河公方領でありながら、関東地方の大部分を新たに支配することになった徳川氏の所領からはやや離れた場所にあり、徳川氏に関東地方の支配を任せつつも、同氏の勢力が自分たちを脅かす勢力に成長することを警戒していた豊臣政権による一種の政治的配慮(牽制策)があったとみられている〔阿部能久「喜連川家の誕生」『戦国期関東公方の研究』(思文閣出版) ISBN 978-4784212859 198-274p〕。 国朝は関ヶ原の戦いの後、徳川家康によって1000石を加増され、4500石の旗本となった。国朝の死後、姫と国朝の弟頼氏が再婚し、喜連川の所領と名跡を受け継いで喜連川氏を称した。その後、交代寄合の四州と同じ扱いを受けた〔小川恭一『江戸の旗本事典』(講談社文庫) ISBN 978-4062736169 66-67p〕。正徳4年(1714年)頃の武鑑には表高家として記載され、享保3年(1718年)頃の武鑑では諸侯扱いとなっており、その間に諸侯扱いとなったと見られる〔。ただし実際には喜連川氏は参勤交代や諸役が免除されていたうえ、武家官位を受けずに無位無官でありながら自称の名乗りが公式の場でも許されており、さらに自身が「天下ノ客位」「無位ノ天臣」と称していたように徳川将軍家との明確な主従関係すら存在しないという〔、幕藩体制の枠組みに収まらない極めて例外的な存在だった。喜連川氏は傍系から養子が入ったものの明治まで続いた。喜連川藩は足利国朝を藩祖とする喜連川氏の所領の称である。 当主は「御所号」といって、御所と敬称されることを許されたが、これは五摂家の当主に許された特権であった。また代々無位ではあったが、歴代の鎌倉公方が任官した左馬頭や左兵衛督を通称とした〔。これが江戸幕府によっても認められ、江戸城中でも四品に準じた存在とされた。 喜連川氏に対するこうした特殊な扱いは、同氏が単なる貴種であったのみならず、徳川氏移封前の関東地方において同地方の支配者として一定の政治的権威を有した存在であり、徳川氏・江戸幕府としても関東地方支配の安定化のために一定の配慮をしなければならない存在であったことが背景にあったとみられている〔。 明治維新後は足利姓に復し、諸侯扱いであったことが考慮されて華族となり、明治17年(1884年)に当時の当主・足利於菟丸が子爵に叙された。於菟丸の長男・足利惇氏は昭和初期の著名なインド・ペルシア学者であった。一方で惇氏は散逸していた喜連川氏関係史料を蒐集し、喜連川氏研究に貢献した。惇氏死後、細川氏からの養子足利公平が第16代目の当主になっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「喜連川氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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