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営団500形電車(えいだん500がたでんしゃ)は、1957年(昭和32年)から1996年(平成8年)まで帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄(東京メトロ))丸ノ内線に在籍していた通勤形電車。 本項では同線に在籍した営団300形電車、営団400形電車、営団900形電車についても記述する。 == 300形 == 1954年(昭和29年)の丸ノ内線池袋 - 御茶ノ水間開業に際して1953年(昭和28年)に落成した両運転台構造車。車両長18mの車体に片側3つの両開き式の客用扉を持ち、ドア間に5枚(内戸袋窓2枚)、車端部に2枚(内戸袋窓1枚)の天地が大きめ(開閉窓で1m)の窓が配される。幅は2,800mmで、銀座線の16m級、2,600mmと比べ一回り大きくなっている。 汽車製造、日本車輌製造、近畿車輛、川崎車輛で一挙に製造された。 開発にあたっては、外観デザイン〔鈴木清秀総裁の案をもとにして東京芸術大学がデザインした。--『日本の鉄道史セミナー』(p180)〕や細部の意匠、スポッティング機構を備え加速時の衝動の少ないシーケンスドラム(順路開閉器)によるABS単位スイッチ式多段制御器、低電圧高定格回転数仕様で軽量のモーターと軌道破壊の少ないWNドライブを組み合わせた駆動システム、ブレーキハンドルの回転角に応じたブレーキ力が得られるセルフラップ式ブレーキ操作弁の採用で操作を容易化し、さらに締切電磁弁(Lock Out Valve:LOV)などの補助機構を併用することで電気制動との同期・連係動作をスムーズに実現可能とするSMEE電磁直通ブレーキシステムなど、主要機器の原型をアメリカ・ニューヨーク市地下鉄に求めた。 ニューヨーク市地下鉄では両開き扉などの当時日本では珍しかった装備を持つBMT STANDARDと称する一群を1914年以降、これを進化させた市営合併後の標準車R1-R9の各形式を1930年以降に量産していた。これらは長大な編成での運転に対応するためにUブレーキを採用するなど先進的な機構を備え、さらに1948年製のR12形以降はウエスティングハウス・エレクトリック社 (WH) 開発によるWNドライブ、ABS制御器、それにSMEEブレーキを備えた前世代とは一線を画する高性能車となった。このグループはその後、特にIRTと呼ばれる規格の小さい区間における保有車の大半を占める程の大量生産が行われ、後年ブレーキ名に由来するSMEEという名称が同市高性能車の代名詞となっていた。一般には1970年代のスプレー画によって車体全体を覆いつくすグラフィティ(落書き)や、末期の赤茶色塗装から名付けられた“Red Bird”の愛称で知られるグループである〔参考サイト:nycsubway.org (英文) ニューヨーク市地下鉄の総合趣味サイト。SUBWAY CARSのRetired Fleetを参照のこと。〕。 300形は、これら戦前から戦後にかけてニューヨーク市で設計された各形式の利点を総合的に取捨選択の上で取り入れ、車体デザインは複数形式を参考に、あらゆる角度から日本的に馴染むよう適宜アレンジを加え、一方電機品やブレーキなどは基本的にWH社の高性能車システムを、三菱電機〔同社は戦前以来、WH社の日本における電車用電装品の技術提携先であった。〕にライセンス契約を結ばせた上で製造させて採用する方針となった。 そこで営団では、ライセンス契約の締結後、1953年にWH社から本方式の電機品一式をサンプルとして1セット輸入した。第二次世界大戦の期間を挟んで文献資料を通じていくばくかのアメリカ電気鉄道技術についての情報は日本側に伝わってはいたが、輸入され梱包を解かれたそれらの機器類を初めて実見した際、日本の技術者達はどの機器が何のために使われるものなのかさえ見当がつかないほど隔絶した、それらの機器のあまりに先進的な機構に大きな衝撃を受けた〔これは走行に必要な機器に限らず、換気装置として導入が決定したファンデリアの場合も同様であった。三菱電機の技術者たちは当初、図面に書かれた整風板の意図が理解できず、それを付けずに試作品を製作してしまい、適切に送風されないのに悩んだ末にようやくその整風板が欠けていることが問題であると理解した、というエピソードが残されている。〕という。 だが、衝撃から立ち直った技術者たちはWH社側との質疑応答とそれらサンプルの徹底的な分析を通じて、新しい機構に対する理解を進めた。そして1953年中にはWH社純正のサンプル品と同等の動作を期待できる機器の試作品が完成した。そこで営団は1400形2両を新造してそれらのデッドコピー品を取り付け、銀座線で試験運転を開始した。 この試験は初期トラブルはあったもののおおむね成功を収め、本形式の実用化に大きく寄与した。なお、試験の終了後、試作機器を取り外された1400形は営業運転に投入するにあたって銀座線他形式と同様の吊り掛け式駆動・ABF制御・M三動弁によるM自動空気ブレーキによる在来方式の機器を新製の上で搭載〔新システムは在来車との性能差があまりに大きく、またブレーキには相互互換性が無かったため、混用は不可能であった。なお、戦前以来の旧型車が長く残存した銀座線はこのような事情から、WNドライブの実用化が1958年の1900形、さらにブレーキシステムに至っては電磁直通ブレーキの本採用が遂に行われず、1984年の営団01系電車で一足飛びに電気指令式ブレーキが採用されるなど他線と比較して近代化が大きく遅れた。〕しており、外された主要機器は後に本形式の309・310に転用されている。 以上のような経緯で、本形式の量産にあたってはすべて三菱電機により電装品が製造された。全形式併結可能な同一性能が求められたことから、以後900形に至るまで電装品は同じものを踏襲している。登場当時は京阪電気鉄道1800形、東武鉄道モハ5720形、東京都交通局(都電)5500・6500形に続く日本で5番目のカルダン駆動車であった。走行性能は起動加速度3.2km/h/s、常用減速度4.0km/h/s、営業最高速度65km/hとされている。運転台のマスコンハンドルは跳ね上げデッドマン式で、これは以後東西線用の5000系まで受け継がれている。 主電動機は三菱電機MB-1447-A/B/C(出力75KW、1時間定格回転数1,200rpm、端子電圧300V、電流280A、最弱め界磁率50%、質量800kg、最高許容回転数4,000rpm、最大許容過電圧750V)であり、連続定格回転数は1,250rpm(端子電圧300V、電流250A時)である。設計当時の日本の高速電気鉄道において一般的な吊り掛け式電動機では、1時間定格回転数が800 - 1000rpmが主流であり、また丸ノ内線と同じ第三軌条方式600V電圧の銀座線の既存車(1両2個モーター車)は端子電圧が給電レールと同じ600Vだった。本形式設計に当たり輸入されたWH社による無装架駆動を前提とした低電圧高速回転仕様の電動機は、その軽量さや整流子部の設計、電動機を発電機としてブレーキ力に変換する発電ブレーキへの最適化、それに誘導分路方式により50%の弱め界磁率を可能とする機構などを含め、三菱電機のみならず当時の日本の電鉄技術者たちに大きな衝撃を与えた。 なお、駆動装置は前述の通りWNドライブで、高速回転仕様の電動機で低い定格速度(高加速度)を実現するため、歯車比は123:17 (7.235) と吊り掛け駆動車と比較してかなり大きく設定されている。 主制御器の制御段数は力行が直列8段、並列5段、弱め界磁5段、発電制動が18段で、乗客数に応じて加減速性能を自動調整する応荷重装置(可変荷重機構)とスポッティング機構を備える。本形式以後に日本の各社が開発した高性能車と比較した場合、一見制御段数が少なく思えるが、定格速度が26km/hと非常に低いため、これでも加減速は滑らかであった。 車体は不燃化のために全金属製とされ、全体的に丸みが持たせられた。市営化前のものを除けば無骨な折り妻ばかりで、鋼製車は最後まで一部リベット組み立ての残ったニューヨーク市に比べ、前面の意匠を始め、車体の造作はより繊細な仕上がりといえる。 当然リベットなどなく全溶接組み立てである。前面は窓3枚で、中央に貫通扉〔第三軌条の銀座線、丸ノ内線では、安全上の理由から乗務員の乗降も前面の貫通扉から行っていた。〕があるという、当時としてはオーソドックスな形状であった。しかし、前照灯と尾灯をセットにして窓下に2セット設置した点、中央上部に設けられた行先表示器の両側に種別灯を備える点は外観上の大きな特徴である。種別灯は行き先を示すもので、御茶ノ水行きは緑茶をイメージした黄緑色に、池袋行きは池の水をイメージした水色に点灯するユニークなものであった。その後の路線延長で意味をなさなくなったため、早々に点灯は廃止されている。また、本形式では換気・送風装置としてファンデリアが採用された。これに伴い通常の屋根の上にこの機能を格納する薄い風洞部が別途載せられた二重屋根構造となっている。400形以降では通常の屋根に風洞が内蔵されるようになって形状が大きく変化したため、この二重屋根は外観上、本形式を識別するポイントとなっている。 塗装は、時の営団総裁が日本国外視察の際に入手した米国のタバコ“BENSON&HEDGES”〔しばしば"ウェストミンスター"とする記述が見受けられるが、間違い。〕の箱デザインと、ロンドンバスの赤をモチーフにして、赤地に白帯塗装、さらに白帯にステンレスのサインカーブ状の曲線を配していた。当時の鉄道車両は地味な塗装が多かっただけあって、斬新なものとして注目された。 車体や電機品の原型をニューヨークに求めたのに対し、台車に関してはニューヨークとは共通性がなく、この当時の新型台車のひとつである住友金属工業FS301〔住友金属工業による、重ね板ばねと2セットのコイルばねを併用して門型のばね機構を構成する、特徴的な軸箱支持機構を備える一連の台車群は、一般に戦前のドイツ国鉄がD-zug用客車に採用した台車の軸箱支持機構と類似した形態であることから「ゲルリッツ台車」と呼ばれるが、これらはオリジナルのゲルリッツ式台車が備える機構の内、軸箱支持機構のみを模倣したものであるに過ぎず(ゲルリッツ式台車の枢要をなすのはむしろ枕ばね機構である)、またこの機構は19世紀には既に存在していたものであることから、これは厳密な意味ではゲルリッツ式台車とは言い難い。〕が採用された。 当初は単行 - 3両編成程度で使用されたが、6両化される頃には中間に連結され、先頭に出ることはなくなっていた。そのため、行先表示器が埋め込まれたり、前面貫通扉が撤去された車両も存在していた。また、後年になって軸重過大などの理由から台車が住友金属工業FS349〔溶接組み立て構造のリンク式台車。〕に換装され、さらに後年の更新時にリコ式吊り手が普通のつり革に、戸袋部分しかなかった荷棚が側窓全体上に、側面客用ドアが窓ガラス面積の小さいものに、簡易型貫通板から通常の貫通幌にそれぞれ交換されている。 301 - 330の合計30両が在籍したが、後継の02系の登場・増備に伴い、本線からは1995年(平成7年)2月28日に営業運転を終了した。また、分岐線(通称・方南町支線)からも1996年(平成8年)7月に唯一残存していた中間改造車304号車をもって営業運転を終了し、形式消滅となった。 廃車後、301号が営団に、319号が民間に売却され、それぞれ静態保存されている。301号は台車を原型であるFS301に戻され、一度中野工場で保存、公道から見える位置に展示された後、2002年11月21日に地下鉄博物館に陸送、2003年6月のリニューアルオープン時から1000形1001号車と並べて展示されている。ただし、1001号車のような原型復元は行われず、床下機器塗色は黒に戻されたが、客用ドアはステンレス製小窓(ただし室内壁面と同一色が塗装されている)で、前面は幌枠付き、つり革はリコ式ではなく現行のものであるなど、最末期の形態のままとなっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「営団500形電車」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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