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嘉元の乱(かげんのらん)は、鎌倉時代後期の嘉元3年(1305年)に発生した鎌倉幕府内での騒乱。北条宗方の乱とも呼ばれる。 == 事件の経緯 == 4月22日、既に執権職を退きながらも実権を握っていた得宗・北条貞時の屋敷で火災がある。 その翌日の23日深夜、貞時の「仰せ」とする得宗被官、御家人の一団が葛西ヶ谷〔宝戒寺の南東で滑川を東勝寺橋で渡った東勝寺跡の周辺。〕にあった連署・北条時村の屋敷を襲い時村ら50余人〔『実躬卿記』の5月8日条〕を殺害。『保暦間記』では「仰ト号シテ夜討ニシタリケル」。『鎌倉年代記』では「左京権大夫時村朝臣誤りて誅されおわんぬ」とある。孫の北条煕時はかろうじて難を逃れたが、葛西ヶ谷の時村邸一帯は出火により消失。 その12日後、引付衆一番頭人の大仏宗宣らが貞時の従兄弟で得宗家執事・北条宗方を追討。二階堂大路薬師堂谷口〔現在の鎌倉宮の左側あたり。明治40年の大森金五郎著『かまくら』 p78 によれは薬師堂ヶ谷は鎌倉宮から左の覚園寺への谷戸。〕にあった宗方の屋敷には火をかけられ宗方の多くの郎等が戦死した。 かつては『保暦間記』の記述により、野心を抱いた北条宗方が引き起こしたものとされたが、その解釈は鎌倉時代末期から南北朝時代のもので、同時代の『実躬卿記』の同年5月8日条にも「凡珍事々々」とある通り、北条一門の暗闘の真相は不明である。 == 京にもたらされた情報 == これを京に居て、関東(鎌倉幕府)からの早馬で知らせを受けた側の当時の記録を見てゆくと以下のようになる。 早馬がもたらした京の朝廷、及び六波羅探題への第一報はでは「去二十三日午剋(刻)、左京権大夫時村朝臣、僕被誅了」(『実躬卿記』の4月27日条)、「関東飛脚到著。是左京大夫時村朝臣、去二十三日被誅事」(大外記中原師茂)と、「時村が誅された」である。執権に次ぐ連署を「誅す」のは北条貞時以外には居ない。 金沢文庫に残る5月16日の京の六波羅探題南方から金沢文庫・称名寺の二代長老明忍房剱阿に送られた「倉栖兼雄書状」によると、この早馬が伝えたものは「御教書」とあり、差し出し人は執権・北条師時であり将軍・久明親王の意思を奉じている建前となる。北条時村の姉妹を祖母にもつ金沢貞顕が探題であった六波羅探題南方では、30年前の北条一族が起こした乱たる二月騒動の記憶が蘇ったのか、「京中連々騒動す。御内の若輩、また或いは弓箭を帯び、或いは甲冑を隠し宿直す。侍所に仰せ、当番の外祇候すべからざる由、禁制を加えられ候と雖も、漫に隠居す。恐怖の膓、肝を焼き候き。仍って御内と云い、京中と云い、此の如く嗷々す」という状態だったという。 そのあと5月7日の夜の子の刻(午前0時頃)、関東(鎌倉幕府)から再び飛脚が鎌倉の執権北条師時 からの「関東御教書」を届ける。その内容は「駿河守宗方、陰謀の企て有るにより、今日(午刻)誅されおはんぬ、その旨を存ずべし、かつがつこの事につき、在京人ならびに西国の地頭・御家人等、参向すべからざるのよし、あひ触れらるべし…」(読み下しは細川重男による) つまり北条宗方の陰謀であったので宗方が誅されたと。 先の「倉栖兼雄書状」の続きには、「…爰に今月七日夜(子の刻)駿州(宗方)御事、御使上洛の間、造意此の如く露顕するの上は、世上自然静謐す。別して天下の為、殊に御内の為、悦ばざりべからず候」と、また5月15日に金沢貞顕が、同じ金沢文庫・称名寺の明忍に送った書状にも、「殊に京兆(左京権大夫であった北条時村のこと)、誤って夭(わざわい)に逢われ候の条、歎かざるべからず候か、然れども造意既に露顕の上は、天下定めて無為に属さしめ候か…」とあり、金沢貞顕の居る六波羅探題南方の、いつ襲われるかという戦々恐々からやっと解放された安堵の様子が覗われる。 ところで、5月4日に宗方が「誅せられ」という、その状況が『実躬卿記』5月8日条にあり、5月4日に、時村殺害は宗方の命令であるという噂に対処するため、貞時が師時亭で評定を行っていたところに宗方が「推入来」したため、北条貞時は佐々木時清を遣わせて「暫不可来臨之由(暫く来ないで欲しいと)」 と伝えようとしたが、「打合、共落命」してしまったという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「嘉元の乱」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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