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四人の警察官構想(よにんのけいさつかんこうそう)とは、1943年にアメリカ合衆国のフランクリン・ルーズベルトがカイロ会談、テヘラン会談を通して主張した構想である。連合国共同宣言署名の四大国のアメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦、中華民国が世界平和の維持に当たるという戦後の国連と国連憲章の基礎になった。 == 四人の警察官 == 戦後の国際秩序として国際連盟に代わる新たな国際機構を4大国を中心に設立することを確認したのは1943年10月30日のモスクワ宣言(4大国宣言)である〔安藤次男「国連安保理事会「5大国制」の起源にかかわって」(立命館国際研究2005.3)PDF-P.4〕。ルーズベルトは1941年の大西洋憲章以来、戦後の国際機構の設立を含む戦後計画に取り組みはじめており〔安藤次男2005.3、PDF-P.5〕、1942年春にソ連のモロトフ外相に「アメリカ、イギリス、そして多分中国と並んで、ソ連は軍備をもった国となり、他の国々は非軍事化されるだろう。ヨーロッパ諸国の植民地帝国は切り離され、3大国または4大国(great powers)に統治が委任されることとなろう」と伝え、ソ連が戦後世界における警察官の一人となることを認める主旨の発言をしていた〔安藤次男2005.3、PDF-P.5〕。 1943年11月のテヘラン会議でルーズベルト大統領が熱心に中華民国を連合国の主要メンバーに引きずりあげることを主張した〔 産経新聞2003.9.12【国連再考】(15)第2部(5)中国とフランス 大国の戦略で「勝者」扱い 古森義久 〕。アメリカだけが後押しする中国について、イギリスは欧州におけるアメリカのコミットに鑑みて11月27日に至って戦時内閣は中国を大国として処遇することに同意する方針を決めた〔安藤次男2005.3、PDF-P.5〕。ソ連は1943年10月のモスクワ外相会議の段階でもモスクワ宣言に中国を参加させることに反対であった〔安藤次男2005.3、PDF-P.5〕。中国社会科学院の資中●〔●=竹かんむりに均〕元米国研究所長によれば「中国はいかなる基準でも三大国と対等なパートナーではなかった。実際には三大国によって新たな地位を決められたのだった。当初はイギリスのウィンストン・チャーチルもソ連のヨシフ・スターリンも中国を二流のパワーとみなし、大国の地位を与えることには強く反対した」〔古森義久2003.9.12(産経新聞)〕。ルーズベルトは、中国の格上げは対日戦争での中国の士気を高めるだけでなく、戦後のアジアで中国を親米の強力な存在とし、ソ連の覇権や日本の再興を抑えるのに役立つ、と計算しており、アジアの国を大国扱いすることは戦後の世界での欧米支配の印象を薄めるという考慮もあった。しかしチャーチルはアメリカのこの動きを「中国の真の重要性をとてつもなく拡大する異様な格上げ」と批判した。スターリンも中国の戦争貢献の少なさを指摘し、さらに激しく反対した。だがルーズベルトはソ連への軍事援助の削減までをほのめかして、反対を抑えていった〔 産経新聞2003.9.12【国連再考】(15)第2部(5)中国とフランス 大国の戦略で「勝者」扱い 古森義久 〕。ルーズベルトと正反対にチャーチルは回顧録では「蒋介石は権力の絶頂に立っていた。アメリカ人の目には彼は世界第4位の国の指導者であり、新アジアのチャンピオンだった。私はこういったものは過剰であって、中国の戦闘能力にしても未来の地位にしても疑問に思っていた。」と述べている。 1943年10月の米英ソ三国外相のモスクワ外相会議で晩餐会の席上、スターリンは初めて対日参戦の意思を表明する。これを受けて、1943年11月22から26日の米英中のカイロ会議で、ルーズベルトは蒋介石に大連を自由港として譲ることを要請し、ソ連が中国と協調することを条件に蒋介石はこれに同意した。1943年11月28日から12月1日、米英ソのテヘラン会議で、ルーズベルトはスターリンに、ソ連の不凍港として大連を国際的自由港化する案を提示した。これはソ連の対日参戦の代償であるが、中国を犠牲とする取引であった〔 『昭和天皇の終戦の聖断;連合国首脳会談から降伏調印式まで 鳥飼行博研究室』〕。 アメリカはヨーロッパやアジア戦線で連合国が勝利するために、蒋介石率いる国民党軍の戦線からの脱落を防ぎ、100万人の日本軍支那派遣軍を中国大陸に釘付けにさせる方針を行っていたが、中国は太平洋戦争勃発により戦略的重要性が低下し、日本軍を釘付けにさせる受動的役割しか期待できず、対日戦に貢献できなかった〔松岡祥治郎著『連合国の太平洋戦争 アメリカはどのように日本を降伏させたか』文芸社〕。 チャーチルとルーズベルトにとって重慶の動向は相変わらずの心配の種であった。ソ連がソ満国境を南下する時期がもし仮に事前に重慶に漏れたならば、それだけで重慶政権内部では重慶派と延安共産党の間のバランスが一挙に崩れ、重慶国民政府の焦慮があるいは南京との接近と関係修復に結びつく可能性があった〔「大東亜会議外交と東南アジア=欧米植民地の初期独立」判澤純太(新潟工科大学研究紀要2005.12)PDF-P.11〕。そうなれば日本の支那派遣軍や南方総軍も重慶南京合同政権のもとに結集し、東南アジア全体の情勢に重大な影響を与える可能性があった〔判澤2005.12、PDF-P.11〕。第二次世界大戦では太平洋戦線とヨーロッパ東部戦線が1943年までの間決定的であり、中国戦線は既に重要でなくなっており、重慶を占領しても亡命政権の成立を促がすだけで何ら戦局にプラスするところにならなかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「四人の警察官構想」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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