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四國 五郎(しこく ごろう、本名同じ。戸籍上の正しい表記は四國五郎。著作によって四国、四國の両方の表記が使われている。1924年5月11日 - 2014年3月30日〔訃報:四国五郎さん89歳=画家 「おこりじぞう」挿絵 - 毎日新聞 2014年4月2日付〕)は、広島県広島市出身(生まれは、現・広島県三原市大和町椋梨〔中国新聞記事(2015年1月30日付)戦後70年 志の軌跡 第1部 四国五郎(2)〕)の画家・挿絵画家・絵本作家・詩人である。広島平和美術展事務局長。広島を拠点にして戦後の平和運動を推進した。特に原爆をテーマにした絵本『おこりじぞう』(金の星社)の装丁と挿絵が有名。この絵本は全国の小学校などで、平和教育の副教材、および演劇の素材として幅広く活用されている。 原爆詩人の峠三吉が死没するまで常に共に活動しており、「ちちをかえせ」で著名な『原爆詩集』(1951年出版オリジナル版)の表紙装丁、中の挿画も全て四國の作品。この詩集は官憲の弾圧を恐れた東京の出版社が全て出版を拒否したため、詩人・壺井繁治の勧めもあり、広島で急遽ガリ版刷りで500部出版したもので、原爆文学作品として記念碑的存在。現在では一部の博物館でしかオリジナル版の実物は目にする事はできない。広島市平和公園内の峠三吉の「ちちをかえせ」の慰霊詩碑のデザインも彼によるもの。また、広島市内には大田洋子の文学碑もあるがこれも四國のデザインによるもの 約3年間シベリアに抑留され、公の全ての記録はソ連により剥奪されたが、四國は生死を彷徨う体験をしながらも、自分で豆のようなノートを作り、それに克明に記録を取り靴の中に入れて密かに日本に持ち帰った。帰国後すぐに記録を絵と共に復元し、シベリア抑留の貴重な生の記録となっている。 また、1950年の朝鮮戦争前から、峠が入院するまで約3年間、『辻詩』(つじし)と題して、絵は四國、詩は峠が担当し、一枚モノの手書きのポスターのような表現物を100種類近く手書きで作成。市内のあちこちにゲリラ的に掲出した。GHQが厳しい言論統制を敷く中、当時としては逮捕覚悟の反戦活動だった(現物はほとんど残っていない)。 戦争によって、意味もなく最も被害を受けるのは、何の罪もない母や子供たち、との考えから、平和の象徴として「母子像」をテーマに、誰にでも分かりやすく平和の尊さを訴える、多くの作品を残した。 また、広島の橋や川を中心に、原爆から逞しく復興して行く広島の街の姿を数多く作品にした。 近年、広島で活動する清掃員画家としてNHKで特集が組まれ反響を呼んだ『ガタロさん』が、一貫して敬愛し、私淑したのが四國五郎。何度も四國に励まされて絵を続けた様子が『ガタロ』(NHK出版)に書かれている。 アメリカ・マサチューセッツ工科大学(MIT)教授のジョン・ダワー(『敗北を抱きしめて』でピューリッツアー賞受賞)が設立した、画像で歴史を学ぶラボ(MIT Visualizing Cultures)のサイトに、広島の被爆者の詳細な体験記が電子紙芝居の形式で掲載されており(Ground Zero 1945 A Schoolboy`s Story)、その絵は全て四國五郎の作品。世界各地からアクセスされて、原爆の実態を学ぶ素材として活用されている。ドイツ・ハノーヴァーでは、小冊子にされて配布された。また、広島県内ほぼ全ての公立学校や図書館で彼の作品を見ることが出来る。現在の広島市立図書館共通貸出利用券のデザインなど、公的機関刊行物、挿絵、装丁、カレンダー等、多くの作品を残した。 四國の死後、彼が残した膨大な作品をどのような形で次の世代に引き継いていくか、ボランティア的に市民の間で有志の会が組織され、作品展等、作品を公開・保全していくための様々な事業が計画されつつある。 2015年1月~2月にかけて、中国新聞において、戦後70年大型企画として、四國の業績を振り返る異例の5回連載記事が掲載された。またNHKでも四國のドキュメンタリー特番(「`母子`に捧げた人生 画家 四國五郎」)が制作され、中国地方(2015年4月10日、11日再放映)でまず放映され、好評を博し、その後全国でも放映された(5月7日) 故郷広島において、市民有志の力により、「優しい視線・静かな怒り 四國五郎追悼・回顧展」と題して、被爆を生き延びた歴史的建築物である、旧日本銀行広島支店において開催され、この場所における歴代の記録を塗り替える動員記録を作った。またこの追悼展には上記のジョン・ダワー氏も、特別にメッセージを寄せた。また、2015年10月には、広島にて「四國五郎のシベリア抑留記」と題して、四國のシベリア抑留に絞った形の3回目の追悼展が開催された。全ての記録が禁止されたシベリア抑留から、帰国の時に持ち帰った飯盒に、収容所仲間の名前が60名近く刻印されており、メディアでも大きく取り上げられた。 == 略歴・人物 == *市内比治山南麓(現在の南区内)に育つ。 *『おこりじぞう』の挿絵を描いたことから、自身も被爆者と思われがちだが、太平洋戦争時は出征(1944年に応召し関東軍に入隊)しており日本にいなかったため、直接被爆はしておらず、3年間のシベリア抑留での生死をさ迷う経験を経て1948年11月に帰国し、故郷・広島の悲劇と共に絵描きになることを誓いあった最愛の弟の被爆死を知り(この時期の経緯は以前NHKで番組化された)、広島に留まり人生をかけて平和のために描くことを決意。 *復員後、広島市役所に就職。また峠三吉を中心とする「われらの詩の会」に参加。 *1949年5月12日、第5回国会・在外同胞引揚問題に関する特別委員会に、証人として出廷している。 *1955年、柿手春三、下村仁一、増田勉らとともに、広島平和展(現:広島平和美術展)を創立、事務局員となる。 *その後、今日にいたるまで、戦争を生き延びた者の立場から戦争と平和を見据え、核兵器の恐ろしさや平和の尊さを訴え続けた。また、戦争・平和をテーマにした作品以外に、戦前、戦後を通じて描き続けている広島の風景集があり、変わり行く風景を描き続けた。 *峠との交友関係から、上記のように詩集の装丁や、1963年建立された峠の詩碑の設計デザインを担当している。また、「峠三吉没後50年の会」の呼びかけ人の一人であり、自ら峠の肖像画を寄贈している。 *1997年、第18回広島文化賞を受賞。 *2004年8月には、東京都千代田区で四國を含めたシベリア抑留経験者の3人(五郎・高橋秀雄・井上馨)が、抑留時の収容所の様子を描いたスケッチを展示する「シベリア抑留スケッチ展」が開かれた。 * 2014年3月30日午後1時50分、脳出血のため広島市で死去〔。89歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「四国五郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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