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四天王プロレス(してんのうプロレス)は、1990年代に日本のプロレス団体全日本プロレスに所属するプロレス四天王と呼ばれるプロレスラーたちが中心となって行った試合スタイル。 リングアウトや反則などプロレスが持つ不透明な要素を排除してピンフォールによる決着のみを目指し、相手を立ち上がれない状態に追い込むために脳天から垂直に落下させる技や高角度でリングから場外に落とす技を多く繰り出した。四天王プロレスは全日本プロレスが興行の目玉であった鶴龍対決〔天龍源一郎とジャンボ鶴田の試合。〕を失った状況下で成立し、プロレスファンからの熱狂的な支持を集めた。その影響はプロレス界全体に及び、多くの団体が試合において危険な技を応酬させるようになったともいわれる。 == 誕生とその経緯 == 四天王プロレスと呼ばれる試合スタイルが初めて行われたのは、1993年7月29日に日本武道館で三沢光晴と川田利明が対戦した全日本プロレス三冠ヘビー級王座タイトルマッチであったといわれる〔Gスピリッツ20、8頁。〕。この試合で三沢は、川田を立て続けに4回スープレックスで投げてから〔投げっ放しジャーマン・スープレックス3回とタイガー・スープレックス1回(Gスピリッツ20、8頁。)。〕ピンフォールによる勝利を収めた〔。 当時、全日本プロレスでは天龍源一郎が退団し、さらにジャンボ鶴田が内臓疾患により第一線を退いたことにより、三沢が実質的なエースとなっていた〔泉2010、16-18頁。〕。全日本プロレスでレフェリーを務めた和田京平によると、この時期に社長のジャイアント馬場はプロレスの理想像を追求し、三沢に川田、小橋健太、田上明を加えた超世代軍と呼ばれる若手レスラーに、自らの理想とする試合形式、すなわち凶器攻撃、流血、リングアウト・反則・ギブアップによる決着のない、ピンフォールによってのみ決着するスタイルをとるよう要求した。その結果、三沢らは3カウントが入る寸前でフォールを返しながら頭部から相手を落とす大技を繰り出し続け、相手を「もう立てない」という状態に追い込んでピンフォール勝ちを収めるという筋立てで試合を行うことを余儀なくされた〔和田2004、200-201・208-209頁。〕。1993年に川田が超世代軍を離脱すると三沢たちはプロレス四天王(後に秋山準が加わり「五強」)と呼ばれるようになった〔日刊スポーツ追悼特集号、9面〕〔三沢2000、103頁。〕〔Gスピリッツ13、11頁。〕。プロレス四天王が行う「限界を超えるような技の攻防戦」は四天王プロレスとして認知され〔、プロレスファンから熱狂的な支持を集めた〔泉2010、18-19頁。〕。 週刊ゴング元編集長の小佐野景浩は、ジャイアント馬場によってリングアウトや反則による決着ばかりでなく舌戦によって注目を集めることも禁止されたため、試合のレベルを高めていかざるを得なかったのだと指摘している〔小佐野2006、91-92頁。〕。プロレスラーの渕正信は、「鶴龍対決〔を超える」という目標を達成するためには四天王プロレスのようなスタイルをとるしかなかったと述べている〔Gスピリッツ13、13頁。〕。プロレスラーの垣原賢人は、トップの人数が少なくライバル団体の新日本プロレスに比べ話題性に乏しい全日本プロレスにとって、試合内容を高めることが唯一の対抗手段であったと述べている〔泉2010、41頁。〕。相手を頭部から落とす大技はリング上だけでなく、エプロンから場外めがけて放たれることもあった〔泉2010、19・38頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「四天王プロレス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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