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駕輿丁(かよちょう)は、かつて日本の朝廷に所属し、高貴な人物の載る駕輿(がよ、鳳輦や輿の意)を担ぐことを主たる任務とした下級職員である〔''駕輿丁''、世界大百科事典 第2版、コトバンク、2012年8月29日閲覧。〕〔''駕輿丁''、デジタル大辞泉、コトバンク、2012年8月29日閲覧。〕〔''駕輿丁''、大辞林 第三版、コトバンク、2012年8月29日閲覧。〕。輿丁(よてい・よちょう)、輿舁(こしかき)ともいう〔〔〔〔小山田ほか、p.142.〕。平安時代末期(12世紀末)に現れた、寺社等に属する輿を舁く剃髪の者は、力者(りきしゃ)と呼ぶ〔、2012年8月29日閲覧。〕。 == 略歴・概要 == 奈良時代(8世紀)以来、朝廷に所属し、輿を担ぎ、輿の綱を執って歩いた〔。797年(延暦16年)に完成した『続日本紀』が記す「宝亀十一年三月辛巳条」(宝亀11年旧暦3月、780年)に「駕輿丁」の語があり、「駕輿丁」たちは庸調を免除されていた〔。 平安時代(8世紀 - 12世紀)までは、輿は天皇、三宮(太皇太后・皇太后・皇后)、斎宮のための乗り物であった〔、2012年8月29日閲覧。〕。公家はおもに牛車に乗った〔。10世紀の『養老職員令』や『延喜内匠式』には、天皇の乗り物として「供御輿輦」「御輿」「御腰輿」が記されており、駕輿丁はこれを担いだ〔。『延喜式』(927年)によれば、駕輿丁は「四府」に属し、 * 近衛府 - 下記計200人 * 左近衛府 - 100人 * 右近衛府 - 100人 * 兵衛府 - 下記計100人 * 左兵衛府 - 50人 * 右兵衛府 - 50人 と、総合計300人が定員であった〔。 鎌倉時代の寛喜年間(1229年 - 1231年)と推定される近江国犬上郡の駕輿丁の言上状(『民経記』1232年(貞永元年)旧暦10月裏文書)には、先の飢饉で在京の駕輿丁の大半が餓死し、周辺国の駕輿丁が行幸などで多用されている状況が記されている〔「四府駕輿丁座」『国史大辞典』第7巻、p.61-62. 吉川弘文館、1986年(執筆者:脇田晴子)〕。室町時代、応安年間(1368年 - 1375年)に成立した『太平記』には、「俄の事にて駕輿丁も無かりければ」(突然のことで駕輿丁もいなかったので)というフレーズで登場する〔。15世紀末の1494年(明応3年)に編纂された『三十二番職人歌合』には、「渡もり」(渡守)とともに「輿舁」として紹介されている〔小山田ほか、p.142.〕。このころには本来の律令制における「駕輿丁」の職能が変容して商工業者化し、「駕輿丁座」を開き、商業に進出していた〔、2012年8月29日閲覧。〕。もともと「駕輿丁」は課役免除の特権を保持しており、さらに駕輿丁座による専売権をも手にした〔。 現在、滋賀県蒲生郡竜王町の大字として存在する地名、「駕輿丁」(かよちょう)は、1889年(明治22年)4月1日に他村と合併して苗村を形成するまでは「駕輿丁村」という村であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「駕輿丁」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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