|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 四 : [よん] 1. (num) four ・ 家 : [いえ, け] 1. (suf) house 2. family
藤原 家成(ふじわら の いえなり、嘉承2年(1107年) - 仁平4年5月29日(1154年7月11日))は、平安時代末期の公家。参議・藤原家保の三男。官位は正二位・中納言。中御門を号す。 == 生涯 == 藤原北家魚名流の出身で、鳥羽院政期において、鳥羽上皇の第一の寵臣として活躍する。中央においては、従妹にあたる美福門院とともに国政の中枢部に深く関わり、また諸国においては数多くの荘園を形成して、経済的にも目ざましい躍進を遂げた。長承元年9月24日(1132年11月3日)、上皇が宇治に御幸して平等院の経蔵を見物した際、藤原忠実は他人を絶対に入れない方針を破り、家成を特別に経蔵の中に入れた〔『続古事談』〕。長承3年(1134年)、家成はこの経蔵を参考にして鳥羽殿に勝光明院と宝蔵を造営する。 藤原忠実は家成と協調的な態度を取っていたが、子の頼長は家成を「天下無双の幸人なり」と評して、その勢威に警戒感を示した。天養2年(1145年)2月、家成は義弟・源雅通と娘婿・藤原公親を前駆として比叡山に登ったが、頼長は清華家(英雄家)出身の雅通・公親が諸大夫出身の家成の前駆を勤めたことを、「永く英雄の名を失う」と非難している〔『台記』〕。 こうしたことを背景に、仁平元年(1151年)、従者同士の諍いを口実にした頼長に邸宅を襲撃され、散々に破壊されるという災難を蒙っている。この頼長の性急かつ短絡的行動は鳥羽法皇の激怒を買い、頼長の失脚とそれにつながる保元の乱勃発の伏線となった。 久寿元年(1154年)、飲水病(糖尿病)の悪化により死去した。生前、現在の京都市東山区鷲尾町に山荘兼寺院を建立し、死後はそこに葬られた。また子孫は羽林家の一つ四条家・山科家として繁栄した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原家成」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|