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四条 秀子(しじょうひでこ、1926年2月5日 - 1986年8月12日)は、宝塚歌劇団月組、のちに専科に所属した、クラシックバレエに秀でた娘役。姓は、文献によって四條とも表記される〔『すみれ花歳月を重ねて―宝塚歌劇団90年史―』宝塚歌劇団、2004年、195頁。〕。京都府京都市出身。本名、津田初榮。愛称、初榮ちゃん。身長、155センチメートル。 == 来歴・人物 == 1926年、4人姉妹の長女として生まれる。京都市立弥栄小学校(現 東山開睛館)卒業後、1938年、宝塚音楽歌劇学校に入学。同時に28期生として宝塚歌劇団に入団。宝塚音楽学校では、ダンス専科に所属。芸名は、実家の近くを東西に走る四条通から姓を、名は父親の名前から一字取り命名される。〔橋本雅夫『すみれの花は嵐を越えて: 宝塚歌劇の昭和史』読売新聞社、1993年、32頁 - 2015年4月21日 Google ブックスによる確認。〕〔『宝塚歌劇100年史虹の橋渡り続けて<人物編>』阪急コミュニケーションズ、2014年、34-35頁、ISBN978-4-484-14601-0。〕 1940年、「世界の詩集」で初舞台後月組に配属。〔 その後次第に第二次世界大戦の戦況が悪化し、1944年3月に宝塚大劇場閉鎖。その他の全国の大劇場も同時期に閉鎖され、宝塚歌劇団の活動は、慰問公演を中心に、中小の劇場に制限される。個々の生徒・団員は、女子挺身隊の宣伝対象として、率先して軍需工場、縫工所への動員を強いられた。このような状況において、同年代の大半の生徒・団員が退団、あるいは命を落とすが、四条は宝塚歌劇団に留まり歌劇活動を続ける。〔前記90年史、190-191頁。〕〔玉岡かおる『タカラジェンヌと太平洋戦争』新潮社、2004年、120頁、149-152頁、187頁、192頁、196-200頁、ISBN 4-10-610075-4〕1943年5‐7月、第二回満州(中国東北)公演に帯同。少なくとも終戦直前1945年7月までの活動記録が残る〔国立劇場編『近代歌舞伎年表 京都篇 第11巻』八木書店、2005年、212-213頁、ISBN 978-4840692328 - 2015年4月21日 Googleブックスによる確認。〕。 終戦後の1946年、宝塚大劇場での公演が再開する。四条は宝塚歌劇団のスターの一人として「歌劇」などでも度々紹介されるようになり、その表紙も飾る。1950年、月組から専科(組織改編で後にダンス専科)に転属する。ダンス専科の中においても、バレエにおいては四条が一番であり、また才能だけに頼らず常に努力を怠らない、と教師や演出家からも評価を受けている。〔前記「歌劇」通巻744号、44頁。〕〔須田玲子『バレエと歩んだ半世紀』文芸社、2000年、55頁、ISBN 978-4835503073 - 2015年4月21日 Googleブックスによる確認。〕1954年10月、日伊合作の蝶々夫人撮影のためイタリアに渡る。1960年代後半になると、主要ダンサーとして宝塚の舞台を支える存在となり〔前記100年史、138頁。〕、1965年9月、第2回ヨーロッパ公演には、専科の主要メンバーとして参加〔キネマ旬報社『キネマ旬報 第 394~397 号』黒甕社、1965年、127頁 - 2015年4月23日 Googleブックスによる確認。〕〔詳細 1965年の宝塚歌劇公演一覧#パリ公演。〕。1970年4月14日、万博効果で湧く「タカラヅカEXPO'70」の、「ハロー!タカラヅカ」で退団〔。退団後は宝塚音楽学校の教員を勤め、1986年死去。享年61。 死後、宝塚歌劇団を代表する演出家白井鐵造から、「バレリーナとして広く日本のバレエ界にも第一人者」と評された〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「四条秀子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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