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四条派(しじょうは)は、日本画界でも大きな派閥である。江戸時代中期頃、呉春(松村月渓)を祖とし、岡本豊彦や松村景文らが発展させ、京都画壇で一大勢力となり、その後塩川文麟、幸野楳嶺、竹内栖鳳、西山翠嶂、堂本印象などと現代まで続いている。 == 概要 == 四条派は、呉春を祖とする画家集団から始まる。 当初、呉春は与謝蕪村について、俳諧や文人画(南画)を学ぶ。その後一時、現在の大阪府池田市に滞在するものの、京都へ戻り円山応挙の門をたたくが、応挙は固辞して受けず、親友として待遇した。そのため呉春は応挙の写実性の薫陶を受け、独特の画風を構築していく。 呉春の弟子である岡本豊彦や実弟で弟子でもある松村景文などが、四条通周辺に居を構えたことから、「四条派」と呼ばれるようになった。 この頃から、宮中に出入りする一方で、京都の町衆の支持も受け、四条派は大きく発展していくことになる。 豊彦や景文は多くの弟子を持ち、その中でも豊彦の弟子である塩川文麟が突出した才能を示したため、四条派の後継者となる。 明治維新期には、文麟は西洋画の手法を取り入れ、それが四条派の画風を変えるきっかけとなった。それは文麟の後継者となる幸野楳嶺にも伝えられる。幸野楳嶺は、画家と言うよりも教育者としての側面が強く、竹内栖鳳や菊池芳文をはじめとする多くの弟子たちを育てた。 戦前には、実質的に竹内栖鳳が四条派を継ぐことになったが、栖鳳は狩野派や西洋画の写実画法などを積極的に取り入れ、再び四条派の画風を変えることになった。又、多くの弟子たちが個別に活躍するようになり、上村松園や西山翠嶂をはじめ、西村五雲、土田麦僊、小野竹喬、池田遙邨などが活躍した。 その後は、堂本印象、上村松篁、中村大三郎らが活躍し、現在に至っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「四条派」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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