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四條 稔(よじょう みのる、1966年9月27日 - )は、山梨県中巨摩郡昭和町出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。 == 来歴・人物 == 東海大甲府では、4番・エースとして3年夏の選手権大会に出場。3回戦で酒井光次郎を擁する松山商と対戦し、連打を浴びて3回途中で降板しチームも敗れている〔読売新聞、1984年8月19日付朝刊、P.15〕。三菱自動車川崎では1年目から4番を任されて4年間で通算90本の本塁打〔読売新聞、1990年3月2日付朝刊、P.19〕を放ち、のドラフト4位で読売ジャイアンツに入団。担当スカウトは河埜和正〔読売新聞、1989年1月13日付夕刊、P.3〕、契約金と年俸はそれぞれ推定で5,500万円、600万円だった〔読売新聞、1988年12月14日付朝刊、P.19〕。 1年目のは小沢浩一らとともにカリフォルニアリーグに派遣され、バイセイリア・オークスで64試合に出場した〔baseball-reference.com マイナー成績 〕。翌は一軍初出場となった5月2日の対中日戦で3安打2打点を記録。5月5日の対広島戦では1番打者に抜擢されたが3三振に倒れ、6月に一軍登録を抹消されている〔読売新聞、1991年1月20日付朝刊、P.19〕。一軍では外野手、二軍では一塁手として起用されながら、同年はジュニアオールスターゲームに出場して2安打2打点で優秀選手に選ばれた〔読売新聞、1990年7月24日付朝刊、P.19〕。シーズン通算ではイースタン・リーグ2位の54打点を挙げ〔、10月のジュニア日本選手権では五番として3安打2打点を挙げて敢闘賞を受賞している〔読売新聞、1990年10月8日付朝刊、P.19〕。同月の日本シリーズでは第1戦、第2戦で代打として出場した。 駒田徳広、吉村禎章、岡崎郁ら左打者のレギュラー陣に食い込もうと大森剛や福王昭仁と競争を繰り広げ〔、はキャンプ2日目に左ひざの靭帯損傷でリタイアした〔読売新聞、1991年6月20日付朝刊、P.19〕ものの、原辰徳に代わってスタメン起用された6月19日の対阪神戦で初本塁打を放つ。しかし故障で7月に一軍登録を抹消され、左ひざ靭帯断裂と半月板損傷について8月24日にフランク・ジョーブの執刀で手術を受け〔読売新聞、1991年8月25日付朝刊、P.19〕、その後はリハビリに取り組んだ。は83試合に出場し、規定打席未満ながら打率.310を記録。オフにはオロナミンCのCMにも出演した〔毎日新聞、2001年1月25日付夕刊、P.2〕。しかし同年11月に秋季キャンプで右手首を骨折して手術を受け〔読売新聞、1992年11月10日付朝刊、P.21〕、翌年以降は出場機会が減少。4月19日に佐々木明義と交換トレードでオリックス・ブルーウェーブに移籍した。 はキャンプの時期からクリーンナップ候補として期待され〔毎日新聞、1996年3月24日付朝刊、P.24〕、自己最多となる108試合に出場。特に後半戦は相手投手との相性によっては藤井康雄に代わる五番打者としてスタメンで起用されている〔読売新聞、1996年10月18日付朝刊、P.21〕。同年の日本シリーズでは無安打だったものの主に一塁手の守備固めとしてD・Jやトロイ・ニールと試合終盤に交代する形で起用され〔1997年度日本シリーズ NPB公式記録 〕、チームは古巣巨人を下して日本一に輝いた。なお、日本一を決めた瞬間のグラウンドには四條の他にもかつて巨人に在籍した高田誠、勝呂壽統が出場しており、ベンチには島野修(かつて巨人へドラフト1位で入団し、その後オリックスのマスコット・ネッピーのスーツアクターを務めていた)もいた〔朝日新聞、1996年10月26日付朝刊、P.27〕。巨人とオリックスでは巧打の選手として代打、もしくは一塁の守備固めでの出場機会が多かった。から若手や外国人の出場機会の増加により試合出場が減り、オフにオリックスを自由契約となり、翌に横浜ベイスターズに移籍。プロでの生き残りをかけてキャンプから打撃などをアピールした〔毎日新聞、1999年2月15日付夕刊、P.8〕ものの、一軍出場はなく同年限りで現役を引退した。 引退後はサークルKのオーナー募集に申込み、選手会で積み立てていた資金で2000年に上大崎2丁目店を開店した〔。2009年1月31日には「久米宏 ラジオなんですけど」のコンビニ特集に電話出演し、近況を語っている。またコンビニ経営と並行して大久保博元が主催する『デーブ ベースボール アカデミー』のコーチも行っている。2015年には甲府商業の臨時コーチに就任した。 2012年8月31日、山梨県を本拠地として2014年にベースボール・チャレンジ・リーグ加入を目指す「山梨風林火山球団設立準備室」のメンバーとして記者会見をおこない、チーム発足後はGM兼監督となる予定であることを明らかにした〔山梨にプロ野球球団…BCリーグに参戦へ 読売新聞2012年9月1日〕。しかし、記者会見以降、加入予定とされた2014年に至るまで続報はなく、その後の状況は不明である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「四條稔」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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