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四条 隆平(しじょう たかとし、1841年6月10日(天保12年4月21日)- 1911年(明治44年)7月18日〔『平成新修旧華族家系大成』上巻、713-714頁。〕)は、幕末の公家、明治期の内政官僚・政治家。第一次奈良県令、元老院議官、貴族院男爵議員、錦鶏間祗候。 ==経歴== 権大納言・四条隆生の三男として生まれる。嘉永6年12月(1854年)、兄四条隆謌の養子となる。安政元年12月(1855年)に元服し昇殿を許された〔『明治維新人名辞典』479-480頁。〕。 元治元年6月(1864年)横浜鎖港督励の三八卿連署、慶応2年8月(1866年)朝廷刷新の二二卿建議(廷臣二十二卿列参事件)に加わり、同年10月差控となる。慶応3年12月(1868年)執筆御用掛に就任。慶應4年1月(1868年1月)鳥羽・伏見の戦いにおいて津藩陣営に赴き朝廷側に帰順し参戦させることに尽力〔〔『幕末維新大人名事典』上巻、626頁。〕。その後、北陸道鎮撫副総督、参与、先鋒副総督兼鎮撫使、新潟裁判所総督兼北陸道鎮撫副総督、越後国柏崎県知事、越後府知事を歴任〔『百官履歴 下巻』315-317頁。〕。 明治2年5月18日(1869年6月27日)、民部官副知事心得・岩代国巡察使に就任。同年6月2日(7月10日)戊辰の戦功により賞典禄200石を永世下賜された。同年9月3日(10月7日)若松県知事兼若松城守に就任。以後、五條県知事、第一次奈良県令を歴任〔。 1879年9月、宮内省御用掛。1882年5月、太政官権少書記官兼元老院権少書記官に就任し、1886年1月に非職となる。1888年3月、元老院議官となり、その1890年10月20日の廃止まで在任し非職、同日、錦鶏間祗候を仰せ付けられる。1894年6月10日、依願免錦鶏間祗候〔「正三位勲三等男爵四条隆平」〕。同年同月、事情により四条侯爵家を廃嫡となり分家した〔〔。1898年7月、男爵を叙爵。同年8月2日、再度、錦鶏間祗候を仰せ付けられる。1904年7月25日、貴族院男爵議員に当選し、死去するまで在任した〔〔『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』73頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「四条隆平」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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