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団 忠正(だん ただまさ、生年不詳 - 天正10年6月2日(1582年6月21日))は、戦国時代の武将。美濃国岩村城主。子に団市兵衛。諱は複数伝わる。 == 生涯 == 生年不詳。幼少期の事については殆ど分かっていない。もともとは梶原姓を名乗っており、梶原氏の末裔を自称するが真偽の程は定かでない。仮に梶原氏の末裔とすれば、本姓は平氏となる。同時期に織田氏に仕えていた梶原景久とは親子若しくは親戚関係とも言われる。 織田家に出仕しだした正確な時期は不明であるが、はじめは織田信長の馬廻だったようで史料における初見は天正6年(1578年)4月20日、村井専次宅での夕飯の席に、信長に従って同席したことである〔『宗及記』〕。しかしながら天正8年(1580年)7月25日に吉田兼見が織田信忠を訪ねた際にはその取次を忠正が行っており〔『兼見卿記』〕、この頃には信忠側近の立場へと変わっている事が伺える。 同年11月27日にはの日比野弥次郎・日比野孫一に陣夫銭の件で棚橋彦一郎の違乱に対して、和田八郎に命じて1貫500文を納めるようにと決まったので異議申し立てをしないようにせよという内容の書状を発給している〔『日比野文書』〕。この書状は織田信長御朱印の旨で裁許するようにと書かれているが日比野は尾張、棚橋は美濃の人物でいずれも信忠領地の武将で、この訴訟の仲裁も信忠側近としての仕事の一環であると考えられる〔『織田信長家臣人名辞典第2版』〕。 天正10年(1582年)の甲州征伐において、森長可とともに先鋒部隊に抜擢されると木曽口より武田領に侵攻し飯田城、高遠城などを次々と落とした。この際に戦意が勝りすぎて叱責されることもあったが、その後の甲斐侵攻、上野侵攻でも長可とともに先鋒部隊を務め功を挙げ、戦後の論功恩賞により河尻秀隆の旧領である岩村城を与えられ岩村5万石の城持大名へと昇格を果たす〔『信長公記』〕。同年4月5日に信濃で発生した芋川親正の一揆では包囲された稲葉貞通救援の為に信忠の命を受けて信濃へと出陣している。 以後も信忠の隷下に属し、同年の本能寺の変の際も信忠と共に二条御所に籠もって明智光秀の軍勢と戦い討死した。 死後、岩村城は信濃海津より撤退してきた森長可が接収し、森氏の支配するところとなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「団忠正」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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